第171話

「あーあ、あと一週間で夏休み終わりかー」


 シャープペンの書く側を下にして立てようという、どう考えても無理な作業を続けながら、楓がぼやいた。


「散々遊び倒したろ。つかお前、予備校通ってたんじゃないのかよ。講習とかなかったのか?」

「多分あったー」

「……多分、ね」

「でもみんなで旅行した日と少しかぶってたんだもん。そしたら行く気なくなっちゃって。ほら、ドラマとかも途中で見逃すと続き見る気なくなるじゃん?」

「それと一緒なのかよ」


 柊は内心呆れつつ、自分が無理やり連れだした旅行のせいで楓が予備校に行かなくなり、最終的に志望大学に落ちるようなことになったら、と考えると少々後ろ暗かった。


 それ以上突っ込まず、また自分の勉強に戻る柊に、楓は問いかけた。


「あんたさ、昔からそうやってせっせと勉強してるけど、将来の夢とかあんの?」

「……将来?」


 言われて、柊は急に考え込む。今まで特に考えたことは無かった。


「別に……」

「おじさんの会社継ぐとか?」

「それはないだろ。別に言われてないし」

「じゃあ、帝東大まで行って、何するの?」


 柊は返事が出来なかった。困った、というよりも、今まで考えたことが無かった。大人になったら、大学を出たらどうしたいか、など。大学すら、行きたくて行くというよりも、行くのが普通だと思って進路として選んだだけだった。


「……考えたこと、なかった」

「やりたいこともないのに、よくあんなに勉強出来るよね。あんた常にテスト上位じゃん」

「他にやることないし……」


 そうだった。今までずっと。

 不満を感じたことが無い代わり、何かが欲しいと思ったことも無かった。


 咲以外は。


 黙っていれば生活に必要なものは全て父が与えてくれた。柊が決して心を開こうとしない家政婦も、父が金で雇ってくれたからこそ、自分は掃除も洗濯もする必要がないのだ。

 恵まれていると言っていいのかもしれないが、この環境すら、柊が自分で望んで得たものではなかった。


「おい? ぼーっとして、どした?」


 ほらほら、というように、楓が柊の目の前で手を左右するのを、うるさそうに払いのける。


「お前はどうなんだよ。アホのくせに上聖大志望とか、なんか理由あるんじゃねーの?」

「えー? そんなのあったり前じゃん、推しの母校だから!」


 そして、じゃじゃーん! と言いながらスマホで写真を見せてくる。柊は呆れて目を細めた。


「誰だそれ」

「え?? 知らないの?? うわー、柊って本当にウチと同い年?」

「知るか、アイドルなんか」

「違いますぅー、あっくんは声優さんですぅー」

「……尚更知るかよ」


 何の参考にもならなかった会話を打ち切って、もう一度参考書に向き直りながら、ふと柊の脳裏に咲の顔が思い浮かんだ。

 楓の言う『推し』というのが一番好きな人を指すのなら、柊にとってのそれはまさしく咲だった。

 楓は好きな人の母校だからという理由で大学を選んだ。なら自分も、自分の将来を考える時に咲を軸にしてもいいはずだと思った。


「咲さんって女子大っぽくない? 聞いてないけどさ。だったらあんたは入れないよ」

「っ、だから! 俺の考えを読むな!」


 何も言ってないのに、楓はスマホをいじりながら話しかけてきた。柊は慌てて顔をこする。そんなに自分は分かりやすいのだろうか。普段、学校でもポーカーフェイスを決め込んでいるつもりなのに、これでは心の中が駄々洩れだ。


「顔に出てるわけじゃないよ。あんたがニヤつきながら考えることなんて咲さんのことだけじゃん。それと今の話の流れを合わせただけだって。……え、ほんとに咲さんの母校に志望校変えようとしたの?」

「ち、ちげーよ。ただ……」


 どこの大学を、学部を出ようが、自分が目指す場所は変わらない。そうであれば、その場所たどり着くために相応しい人間になりたい。


 柊は、ほんの少しだけ未来と希望が形を取り始めたような気がした。


 赤くなったり、何も書いてない顔をごしごしこすったりしている柊を、楓はこっそり写真に撮った。そして柊に気づかれないようにそっと咲に送信した。

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