第170話

 個人宅にしては高い天井を見上げながら、ふと、柊はこの部屋に来たことがあるのだろうかと想像した。が、わざわざ沙紀に確認する気は起こらなかった。

 隣から薄く紫煙が漂ってきた。


「なるほどね……、確かに彼女のキャラからいって、そんなに簡単に容認は出来ないでしょうね」

「本来、柊もこんなこととは無縁なやつなんですけどね」

「それ、聞いてみたかったんだけど」


 ベッドサイドの灰皿に煙草を押し付けて消すと、沙紀は宗司に覆いかぶさってきた。


「なんであの子を引きずり込んだの?」

「引きずり込んだ、って……」

「自分からやりたいって言うような子じゃないでしょ、きっと」

「そうですね……、だからあなたも、あいつを気に入ったんでしょう?」


 はぐらかすように、自分を覗き込んでくる沙紀を抱きしめながら上下を反転させると、首筋に食らいつきながら片方の腿を抱え上げる。


「放っておけなかったんです。それだけですよ……」


 つい、本音が漏れた。が、沙紀は既に聞いていないようだった。


◇◆◇


「下田さんに?」


 翌日咲は、外出から戻ってきた宇野を捉まえて、プロジェクト参加中の自分の不在時についての対策を提案した。

 自分と下田で宇野の予定を共有して、業務を分担し合うというものだった。


「下田さんのお仕事が増えてしまうので心配だったのですが、了承していただけたので……、如何でしょうか」


 宇野は暫し考える。下田は、一時期咲を徹底的に避けていた。避けていただけではなく、直接批判もしていた場面を見ている。その理由が、自分が社歴の浅い咲を抜擢したせいだということも知っている。

 その下田が、果たして咲と自分に協力するのか、いまいち信用が置けなかった。


「真壁さんは、それでいいの?」

「もちろんです。下田さんは会社のことも宇野さんのお仕事のこともよくご存じだし、私より仕事早いですし、席も隣だし……」

「そうじゃなくて、少し前には、ね」


 宇野が何を心配してくれているのかは分かる。しかし昨日、ダメ元で下田に相談したところ、思ってもいなかったほど快く引き受けてもらえた。その後もまるで自分の入社時に戻ったかのように話しかけてくる。

 そのせいか、急に体が軽くなったような気がした。下田の機嫌を取るつもりは無いが、これで彼女との関係が改善し、自分も気兼ねせず社外に出られるとしたら一石二鳥だった。


 咲は、心配無用だというように首を振った。


「やっぱり私が社内で一番話しやすいのは下田さんですし、他の方がどんなお仕事を担当しているか詳しく知りません。また急に社外に出なければいけなくなるとも限りませんし、これが一番早い対応かと思うんです」


 いつもの穏やかな口調だが、言葉尻が以前と違うことに、宇野は驚いていた。数日前まで、こんな風に言い切る表現はしなかったのに。特に仕事においては。


「引継ぎはちゃんとしますので、宇野さんにご迷惑はかけません」

「引継ぎ、って、秘書はこれからも真壁さんだよ?」

「あ、はい、それはもちろん。えっと、じゃあなんて言うんでしょう、説明?」


 自分から咲が離れていこうとしているのかと、些細な言葉に引っかかりを感じてしまった。ただの言葉の綾だったようで、少しほっとする。


「そうだね……、じゃあ、今日定時後に二人とも残ってくれる? 三人で明日以降の手順を相談しようか」

「はい! ありがとうございます。下田さんに伝えますね」


 笑顔でぺこりと頭を下げ、咲は打ち合わせブースを後にした。


 咲が無理をして残業した挙句体調を崩す、という流れを止めたのは自分だが、結果として彼女との接点を減らしてしまった。

 後悔先に立たず。だがあんなに明るい顔を見るのは久しぶりで、それなら我慢しようかと、宇野は天を仰いだ。

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