第168話

 真っ暗な玄関を開け、部屋の灯りをつける。二十畳近いリビングの中央のソファは、ベッドと見紛うほどの大きさだ。化粧も落とさず着替えもしないまま、沙紀は倒れるように横たわった。


(馬鹿じゃないの、私)


 月曜の朝一など、会社員なら一番忙しく大事な時間帯。そこを狙ってわざと呼びつけた。案の定ガチガチに緊張した面持ちで、借りて来た猫、どころかハツカネズミのように小さくなっていた。

 別の狙いがあればこそ、何故自分がこんなのと対等に仕事の話をしなければならないのかと思ったら、ついイライラが口をついて出てしまった。


 飲み物一つ自分で決めようとしない自我のなさが、どうにも我慢出来なかった。

 しかし咲は、呆れるほど素直に自分の言葉を受け容れた。

 その様が、更に沙紀をイラつかせる。予定を変更してまで長時間拘束したが、帰り際に


『本当にありがとうございました! とっても勉強になりました』


 と礼まで言われ、笑顔を返すのに一苦労した。更にそのまま別れるのも癪に触り、余計な一言を漏らしてしまう。


『勉強、じゃないのよ。仕事なの。忘れないでね』

『……っ、はい!』


 自分が言ったことは至極常識的だと思うものの、弱い者いじめをしてしまったような苦さが口の中に残った。そしてそれはそのまま、真壁咲への嫌悪感を増していった。

 スマホを取り上げる。時刻は夜の十時過ぎ。寝てはいないだろうが、掛けたところでどうせ出るはずはない。

 しかし真壁咲からの電話なら……。

 考えるまでもない問いの答えを否定したくて、沙紀は一人で叫び声をあげた。


◇◆◇


「え、仕事してるの? 家で?」

『うん、仕事っていうか、半分は勉強みたいなものだけど』

「こんな時間なのに……。咲さんの会社って、アレ? ブラックなんとかってやつ?」


 聞きかじりの知識で心配を伝えてしまう。夕食を終えた後に家で仕事をするのは、大人は普通なのだろうか。父はそもそもこの時間ですらまだ家に居ない。でも咲は父のような経営者ではないのだから、プライベートな時間を犠牲にしてまで仕事をするなんておかしい気がした。


『違うってば。私、前に残業ばかりして体調崩したことがあって、それで上司に残業は止められてて』


 自分が以前掴みかかった男を思い出す。当たり前のことだが、その男が日中はずっと咲と一緒だと思うと良い気分はしなかった。


『それに、仕事そのものじゃなくて、知らなかったことの勉強だから。やりたくてやってるんだよ』


 咲は今日買ってきたばかりのビジネス書の表紙を眺める。この手合いの本を自分が購入するとは、今までは想像出来なかった。


『だったらいいけど……無理はしないでよ。俺、心配で勉強出来なくなるよ』

「ええ?! なにそれ。大丈夫よ、受験生の柊くんよりも勉強するってことはないから」

『大丈夫だよ、俺、このままでも受かるから。去年面談に来てくれた時担任が言ってたろ?』


 咲は当時のことを思い出す。叔母だ、という嘘がバレやしないかヒヤヒヤしながら同席していたので、細かい内容は覚えていないが、帝東大志望だったことを思い出した。


「でも日本一の大学だよ。一応一生懸命やらないとさ」

『平気だって。宗司さんにも勉強見てもらってるし』


 宗司の名に、瞬間ぎくりとする。そして柊がしていたアルバイトの件も思い出した。そう言えば本人には確認していない。しかしどう切り出せばいいのかも思いつかない。

 宗司が嘘を言うとは思えないが、かといって本人に聞かずに想像に任せて宗司の話を鵜呑みにすることもしたくなかった。


(普通のお母さんだったら、こういう時どうするんだろう……)


 未成年の息子が、もしかしたら性的なサービスを金をもらって施していたと知ったら。

 泣いて止めるのか、叱るのか、それとも何もしないのか。父親に相談するのだろうか。しかし内容が内容なだけに、忠道に話すのも躊躇う。本当の家族なら遠慮している場合ではないのだろうが、自分達はそうではない。


『誠くんにしてたことをそのまま柊にやってみたら?』


 昨日の楓の言葉が甦る。電話越しに柊の声を聞きながら、もしも、を想像してみた。

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