第三章

第167話

 翌日咲が出勤すると、朝一で打ち合わせがしたいと小出沙紀からメールが入っていた。宇野がCCに指定されていたので、話は通っているということだろう。指定された時間に、先方のオフィスへ出向いた。

 海外のファッションブランドのショップが立ち並ぶエリアは、普段馴染みが無いため緊張を高める。そもそも取引先企業を一人で訪問する経験すらほとんどない上に、今日は宇野の『お遣い』ではなく、自分が自社側の主担当なのだ、と考えるほどに血圧が上がる気がした。


 ガラス張りのオフィスの受付で、小出とのアポイントメントと自分の名を名乗る。タレントのように美しい受付の女性にすら気後れして回れ右して帰りたくなった。


「お待たせしました。ごめんなさいね、月曜の朝一で」


 通された会議室に、数分して現れた小出沙紀は相変わらず華やかで、咲は圧倒されて一瞬挨拶が遅れてしまった。


「いえ、あの、おはようございます」

「そんなに緊張しないで……。そうだ、何飲みます? コーヒーやお茶だけじゃなくて、ハーブティやミネラルウォーターもあるわよ?」

「いえ、私は……」

「あのね、遠慮は美徳じゃないのよ」


 軽く睨むような表情で言われ、咲は目を見開く。しかし怒っている感じはしない。


「咲さんて、昔の女の人の美点を全部持っているような人ね。控えめで、謙虚で、か弱そうで、一歩下がって人を立てて。でもね、責任を持って仕事をする時、それだけでは通用しないし、むしろ美徳ではない場合も多いのよ」


 咲は黙って言葉に聞き入っていた。しばし置かれた沈黙も、その言葉を心に刻むためのように思われた。


「何が飲みたいのか、あなたが決めるの。人に任せるのは遠慮じゃない、逃避よ」

「……はい。では、冷たいお茶を……」


 圧倒されながらも、自然と一番今飲みたいものが口から出た。沙紀はにこりと微笑んだ。


「分かったわ、今持ってきてもらうから、ちょっと待ってね」


 そして内線電話で二人分の飲み物を持ってくるよう指示を出す。

 咲はここに来るまでに感じた緊張のダメ押しを食らったようにドキドキしつつ、しかし不思議な高揚感も感じていた。


(ただ、飲み物を決めただけなのに)


 沙紀に気づかれないよう、ふう、と深呼吸する。吐き終わって顔を上げれば、長い髪を肩から払いながら、沙紀が資料を手渡してきた。


「さ、始めましょうか」

「はい!」


 もう咲の緊張は消えていた。


◇◆◇


「そうか、お疲れ様」

「いいえ、すみません、結局今日はこれにかかり切りになってしまって」


 沙紀のオフィスで、気が付けば昼過ぎまでディスカッションを続けていたので、報告は帰社後の夕方になっていた。自分はまだしも、社長として忙しい沙紀を思いの外長時間拘束してしまったし、自分も他の業務をほとんどこなせずに定時を迎えそうだった。


「全然構わないよ、今日のところは逆に僕が社内にいたしね。ただ、今後の進め方は相談させてほしい」

「今日は予定ないので、この後私が……」

「ダメ。忘れたの? 残業続きで体調崩した事あったでしょう。具体的な効率化が図れないままなら、同じこと繰り返すだけだよ」

「はい……」


 咲は些か落ち込む。朝、飲み物の件で小出沙紀に突っ込まれたこともだが、どうも自分は仕事をする上での認識が間違っているらしい。

 自分で決めて主張すること。ただ無理を通すだけではなく、効率を考えること。

 分かっていはいたが、どこかで自分には関係のないことだと思っていた。しかし今の自分の仕事の仕方はもう通用しないことを肌で感じ始めていた。


「あの、その効率化、私が考えてみていいですか?」

「……え?」

「使い物になる案を出せるかは自信ないんですが、まずは自分で考えてみたくて……。ダメでしょうか」


 宇野は目をしばたたかせた。少しだけ、自分が知っている咲らしからぬものを感じたからだった。

 だが、前のめりにこちらを伺ってくる咲に、ノーとは言えなかった。


「分かった……。じゃあ、今週中に何か提案してくれる? 金曜の午後にそれについて話し合おう」

「ありがとうございます!」


 勢いよく頭を下げる。上げた顔は明るかった。

 今でも咲への恋心が冷めていない宇野の目には眩しいほどだったが、何故ここまでやる気にあふれているのか理由が分からず、心がざわついた。

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