第165話
「どうぞ」
「う、えっと、その、ありがとう……」
気持ちが落ち着いてから、柊の水分補給のために麦茶を出した。次からはもっと体に良さそうな飲み物を常備しておこうと、咲は心に書き留める。
「この間はカップありがとう。あれはホットのほうが合いそうだから、もう少し涼しくなったら使おうね」
「う、うん! 割れてなかった? 自分では確認したんだけど」
「大丈夫だったよ。ちゃんと仕舞ってあるから安心して」
普段よりもずっとニコニコしているように見える咲に、柊は嬉しいが落ち着かない。勢いで言ってしまったが、それを言うために走ってきたのは事実だが、今になって気恥ずかしくなってきた。しかし咲は最近見ないほどに上機嫌だ。
「咲さん、笑い過ぎ」
「え? 笑ってないよ。……そうね、嬉しいから顔が緩んでるのかな」
そうだ、メロンあるよ、と言って立ち上がる。お腹空いてない? とか、エアコン強くする? とか、咲は
「大丈夫だから、咲さんも座ってよ」
「でも……、あ、麦茶お替りする?」
「だから、ほら、座って」
お母さんになって、と言ったのに、なぜか柊が咲を窘める状況に苦笑する。自分の横のスペースをポンポン、と叩いて、座るように促す。
「さっきさ、ああ言ったけど……具体的にどうすればいいのか分からない。親父は甘えろ、って言ったけど、人に甘えたことが無いから、それもよく分からないんだ。……咲さんは、俺にどうして欲しい?」
言われて初めて、咲も自分では何も思いつかないことに気が付いた。
◇◆◇
「急に伺ったらご迷惑じゃない?」
「んなわけないじゃん。さっき電話したし。ついでにまた一緒に夕飯食おうよ」
折角日曜日で家に忠道がいるのだから、先ほどの話をしに行こうと柊から提案があった。今日の今日で、と咲は躊躇しかけるが、発案者は忠道だ。柊の決断を報告し、今後の相談をしたほうがいいと思い直した。
何より、自分も柊も、一体これからどうすればいいのか、何一つ案が出なかった。
マンションから出て大通りまで来ると、咲は空車のタクシーを探そうとするが、柊は咲の手を引いて歩きだした。
「三十分くらいだから歩こうよ」
「え? でも、柊くん来る時走ってきたんでしょ。疲れてない?」
「もう平気だって。麦茶飲んだし、冷房で涼んだし」
ほらほら、と手を繋いで家に向かって歩き出す。気が逸っているのか、柊の歩調が早くて咲は若干小走り気味だったのを、数分してから柊が気づいて歩みを緩めた。そしてその気遣いに咲が気づき、二人で目を合わせて微笑んだ。
そんな些細な一致が、柊は嬉しくてたまらなかった。
◇◆◇
家に入る前に、二人を待ち伏せしていたらしい楓に掴まった。咲を連れて自分の家に駆けこもうとするが、当の咲が楓のほうへ歩いて行ってしまい、柊は諦める。
「……なんでいるんだよ」
「楓様には全てお見通しなのだよ。おーほっほ!」
「誰だお前」
仁王立ちで腰に手を当てて、笑い方だけ昔のお嬢様キャラのようだ。しかしタンクトップに短パンでは格好つかない。咲は頑張って笑うのを堪えているらしいのが、柊には伝わってきた。
「少しだけフライングさせてよ。すぐ解放するからさ」
ほらほら、と背を押され、楓に部屋へ上げられた。
「ほほーう、で、無事ミッション完了した、と」
「完了じゃないわよ、これからよ、ね、柊くん」
咲は『母親代理・他人への甘え方』ミッションを指しているのだが、楓は柊を見ながらニヤニヤしている。柊がちゃんと自分の意思を伝えられたことはこれで確認出来た。
「でもね、これからどうしたらいいか分からなくって……」
「どうって?」
「柊くんはお母さんと一緒に暮らした記憶が無いし、私は誠が赤ちゃんの時に亡くなっちゃったし……」
「んなの簡単じゃん。誠くんにしてたことをそのまま柊にやってみたら?」
「……誠に?」
咲は慌てて記憶を呼び起こす。その横で柊は真っ赤になって立ち上がった。
「ばっ、バカかお前! そ、そんなこと、俺は……」
「……柊くん?」
「あっれー? 柊は何を想像したのかなぁ?」
目を細めてニヤつく楓の口を柊が塞ごうと暴れる。それを止めようとした咲が間に入る。大騒ぎしている部屋に、楓の母の怒号が響いた。
平謝りするのは咲だけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます