第164話
もし、自分が、死んだ咲の子どもだったら。
楓の問いは、驚くほど柊の深い部分に突き刺さった。
楓に言われるまで、ちらとも考えたことが無かった。
「もし、俺だったら……」
「……まあ、すぐ思いつくことじゃないだろうから、帰ったら考えてみれば。ねー、そんで、ここなんだけどさぁ」
あっという間に切り替えて、楓は問題集を差し出す。勉強は勉強でやらなければいけないことに変わりはない。
楓の質問に機械的に答えながら、柊の心はその問いを繰り返し続けていた。
◇◆◇
『あいつの母代わりなんて、本当に務まるの?』
咲もまた、宗司の言葉に思いを巡らせていた。
同時に、自分の覚悟の薄さも思い知っていた。
自分にとって『子』が負の記憶へのトリガーであるように、柊にとってのそれが『母』なのだとしたら、先日の自分と忠道の提案は、そう簡単に飲めるものではない。少し間を置けば、と安易に様子を見ようとしていた自分が恥ずかしくなる。
しかし忠道の親としての想いや懸念も、よく理解できる。
柊は、人に迷惑をかけないよう、気を使いながら、持ち前の能力と才で生きている。まだ大人に守られて、怒られて、甘えてもいい年頃なのに、それを禁じている柊をそのままにしておきたくは無かった。
◇◆◇
「ねー、ちょっと休憩しない? 二時間もぶっ続けだよー」
と言いながら、既に楓はテーブルに突っ伏している。目を閉じたらそのまま寝てしまいそうな気分だった。
「悪い、俺、ちょっと行ってくるわ」
「んー?」
のったりと顔を上げると、柊は既に荷物をまとめて立ち上がっていた。
「……咲さん?」
「うん、なんか、分かった」
それだけで、楓にも伝わった。にーっと笑ってピースサインを出すと、柊は照れたようにそっぽを向いた。
「いつもサンキュー」
そして言い逃げするように素早く出ていく。楓は柊が玄関を出た音が聞こえた時点で堪えきれず爆笑した。
柊は参考書と文房具を玄関に放り出すと、そのまま外へ駆けだす。最近、咲の家に行く時も帰るときも、走ってばかりだと気づいて笑いそうになる。しかし、逸る気持ちは抑えられなかった。
真夏の日曜の午後。休日とはいえ、炎天下の一番気温が高い時間帯は寧ろ人気が少ない。その上で走りやすい空間が出来ている場所を選びながら駆け続けた。
◇◆◇
ピンポーン。
インターフォンが鳴った音で、咲はビクっと体を震わせる。もしかしたら宗司だろうか、と躊躇しつつカメラをオンにすると、肩で息をしている柊だった。
「柊くん?! ど、どうしたの?」
『ハァ、ハァ……。咲さん、急にごめん、開けてくれる……? やべえ、腹痛てえ』
横っ腹を抑えて前かがみになる姿が見えて、慌ててロックを解除する。柊がドアを通過したのを見届け、咲は玄関を開けて上がってくるのを待った。
少しして、エレベーター口から柊が現れた。さっきは苦しそうだったのに、今は普通に歩いているので安心する。
「大丈夫?」
「うん、家からダッシュしてきたから、さすがに疲れただけ。運動不足、やべーわ。俺、スポーツ苦手じゃないのに」
「家から、って……」
柊の家からここまで果たして何キロあるのだろう。酷暑の中走り続けて、でももう回復している体力に唖然とするばかりだった。
「とりあえず、入って……。スポーツドリンクとかはないけど、水分補給しないと」
言いながら、慌ててキッチンへ駆け込もうとする咲の腕を、柊は後ろから掴んだ。
「その前に、聞いて欲しいんだ」
驚いて振り向くと、すぐ近くに柊が立っていた。流れる汗の匂いが伝わってくるほど近くに。
「俺、咲さんの役に立ちたい」
再び驚き、咲は瞬きを繰り返すことしか出来ない。
「俺、誠くんの代わりになるよ。だから……、咲さん、もう一度お母さんになってよ」
少し恥ずかしそうに、はにかみながら告げる柊の顔が、咲の視界の中で歪む。そして腕を掴まれたまま、その場に泣き崩れてしまっていた。
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