第141話

「実は妻に……、元妻に、一度だけコンタクトを取ったことがあるんです」


 咲に話しかけているが、目線は違うほうへ向いていた。咲は邪魔にならないよう、仕草だけで頷いた。


「妻は、離婚届の自分の欄には全て記入した上で出ていきました。私物も、必要なものは全て運び出していて、家に残っていたものは消耗品や、私が贈ったものばかりでした。結婚指輪も、寝室のゴミ箱から出てきました。だから離婚をするだけなら連絡を取る必要はありませんでした」


 忠道はそれ指輪を見つけた時の驚きと、何故か妙に納得していた自分を思い出していた。


「出て行ったのは、考えてみれば当然かもしれない。夫は外面は良くても家には寝に帰ってくるだけ、それすらない日も続いて、自分は家に一人きり。妊娠中も出産のときも、妻がどんなふうだったか全く記憶がありません。一緒にいなかったのだから当然ですね。ただ、妻から何か苦情があったわけでもなかった。だから勝手に問題ないと思い込んでいました」


 帰れば出迎えてくれる。非難がましいことは何も言わない。夫として、子どもの父親として自分が不足だらけだと認識しつつも、自分の生活の十割が仕事だった。


「そして突然いなくなりました。私がそれに気づいたのは、数日後でした」


 当たり前のように外泊し、二十四時間仕事のことだけ考え続け、思い出したように帰宅したら妻が消えていた。


「柊くんは……」

「柊は……、岸川さんのお宅に預けられていました。私が帰宅したところでご夫妻が連れてきてくれました。ついでに悟、楓ちゃんの父親ですが、一発ぶん殴られましたよ」


 自分で作った拳で自分を殴る真似をしながら、当時を振り返りつつ話し続ける。お前はバカだと怒鳴って殴って叱ってくれた友人には、今も感謝しているし、楓を通じて世話になりっぱなしだった。


「それまで付き合った女性は、ほったらかしにするとすぐに苦情を言われました。だから女性はそういうものだと、淋しければ文句を言う、言わないのは問題が無いからだと思い込んでいた……。妻個人をちゃんと受け止めていなかった証拠ですね」


 せめて詫びだけでも、と思い、元妻の実家に連絡を入れたところ、本人は出てくれなかった。妻の両親も忠道を咎めなかった。ただし、二度と連絡してくるな、とだけ、強く念を押された。そして義両親も妻も、柊について一言も無かった。


「離婚の直接の理由は今でも分かりません。私が至らなかったことだけは事実です。だから彼女を責めるつもりは毛頭ない。けれど」

「柊くんは別です」


 忠道の言葉を遮るように、厳しい声が飛んできた。驚いて咲を見ると、両手を握りしめながらじっと何かに耐えていた。


「ごめんなさい、他人なのに失礼なことを……でも」


 忠道の元妻、柊の母にも事情や感情や考えはあるだろう。しかしだからと言って、まるでゴミ箱に捨てた指輪のように、我が子である柊を置き去りにし、しかもその後を気遣う言葉も無かったことが、咲には許せなかった。


「柊くんは、違うんです……」


 もう一度同じ言葉をつぶやく。そして指先が白くなるほど強く両手を握り締めていた。

 そんな咲を見ていたら、忠道は何かが溶けていくような感覚を得た。そうだ、自分も同じことを言いたかったのだ、と。

 爪が食い込むほど力が籠っている咲の手を、上からそっと包んだ。気が付けば、鼻が変に熱を持っていた。


「ありがとうございます」


 柊がどこでどうやって咲と知り合ったのかは知らない。聞いてみようと思っていたが、それもどうでもよくなった。そして柊が、楓が、何故咲にあんなにまで懐いているのかもようやく腹の底から納得出来た。

 忠道は芽生えそうになっていたものを、自らの手で摘んだ。


「あなたがいてくれて、よかった」

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