第140話
「まさかあなたが来るなんてね」
ベッドサイドの灯りをつけ、煙草を一本抜き取る。沙紀が火をつけるより早く、隣から腕が伸びてきて煙草を取られた。
「三十分以内なんて、急すぎますよ。自分が来たほうが早いでしょう」
宗司は、業務用の受け答えとは裏腹に、空いている側の腕で沙紀の裸の肩を抱き寄せた。いたずら心で、吸った煙草の煙を顔に吹きかける。びっくりしてむせ返る沙紀の様子が面白くて声を立てて笑った。
「ちょっと、いきなり止めてよ……煙が目に入ったじゃない」
「じゃあ、目を瞑っていればいい」
まだ長さの残っている煙草を灰皿に押し付けて消すと、もう一度沙紀に覆いかぶさる。自分の煙臭いだろう息を沙紀の口の中に吹き込む。今度はむせることなく吸い込む沙紀に、宗司はほんの少しだけ欲情した。
「最近、マコトくんには会ってるの?」
「しゅ……、マコトですか、いえ、今あいつ忙しいんで」
「受験生だものね」
冷蔵庫から出してきた缶ビールを宗司に渡しながら、沙紀は苦笑する。受け取る宗司も気まずさを感じつつ頷いた。
「でも、それだけじゃなさそうよ」
「……なんのことですか」
「大好きな彼女がいるから」
ビールの何倍も苦い言葉を、平静を装って口にするのは大層骨が折れると感じながら、沙紀は宗司に答える。驚くだろうと思っていたが、あっさりと頷き返された。
「らしいですね、意中の女性がいるというのは聞いてますよ」
「あら、咲さんのこと知ってるの?」
「……サキ?」
「そうよ、マコト……じゃないわね、柊くんの大事な彼女」
「サキ、と言うんですか……?」
宗司は思わぬ方向から突き飛ばされたような衝撃を受け、表情が止まる。まさか、と思う。目の前の女の名も『サキ』だ。
「相川さん?」
「……いえ、あなたと、同じ名前なんですね」
「そうね、でも見た目は全然違うわよ。大人しそうで、か弱そうで、守ってあげたくなるような女って感じ? 私と正反対」
不快さを隠そうとしない沙紀の声音よりも、彼女の表現した『サキ』のイメージが再び宗司の中で繰り返される。螺旋のようにグルグル回りながら、気が付けば一人の女の像に取って代わっていた。
「……会ったこと、あるんですか?」
「会ったっていうか、仕組んだのよ、わざとね。これからしばらくは同じプロジェクトで働いてもらうことになるわ」
苦痛に立ち向かうような、どす黒い期待が吹きあがってくるような、沙紀にとって咲と関わることは闘争本能と逃走心の両方を強く掻き立てられる。柊と会えないならこれで自分を慰めるしかない。
「沙紀さん、相談ですが……」
宗司の声に、ん? と振り向くと、再び強く口づけられる。話の続きを聞こうと抵抗したが、そのまま押し流された。
◇◆◇
「今回は、本当にありがとうございました」
部屋に戻ろうとしたところで、忠道と出くわした。
『バーがあるんですが、ご一緒しませんか?』
と誘われ、OKしたのだった。
旅館に併設のバーにしては広さがあり、他の客と離れた席に案内される。静かなBGMが心地よかった。
「いえ、こちらこそ。あの、私の分は後で請求いただけますか?」
場にそぐわないと思いつつ、子どもたちがいない今がチャンスと、費用負担について確認する。しかし忠道は笑って拒否した。
「何言ってるんですか、お忙しいところ私たちの我儘にお付き合いいただいたんです、全額こちらで持ちますよ」
「でも……」
「はい、そんな話はここまで。もう聞きませんので、咲さんも諦めてください」
この話題はもう終わりとばかりに、ウェイターを呼ぶ。その様子を見ながら、せめて仲居への心づけ分くらいは自分が出せばよかったと後悔した。
「じゃあ、そうだな……、では宿代の替わりに、僕のみっともない話を聞いてもらえますか?」
急に忠道の空気が和らいだ気がした。咲は微かに頷いた。
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