第138話
「ふぅ、気持ちいー」
食休みしてから、楓は咲を誘って大浴場へ来ていた。時間帯が遅いこともあり、他に入浴客はいない。見上げる空にはびっくりするほどたくさんの星が輝いていて、見飽きなかった。
「あのワンピ、買ったんだねー。よかった、めっちゃ似合ってたもん」
「うん、でもいざ着ようと思うと恥ずかしいかも」
「なんで? じゃあウチと遊びに行く時に来てくればいいじゃん」
「そうね、楓ちゃんが無事合格したらね」
そうなると、ワンピースは夏物だから、遊びに行く予定もほぼ一年後になる。楓はぶくぶく言いながら湯に沈んでいく。
数秒で浮き上がってきた。ぷはっと息を吐くと、泳ぐようなしぐさで咲のすぐ隣まで近寄ってきた。
「なんかあった? 柊と」
「……え?」
「いやー、あいつ、帰ってきてからずっと機嫌がいいからさぁ。いつもはちょっとしたことですぐへそ曲げる奴なのに、勉強もめっちゃ丁寧に教えてくれるし。誰?! とか思うレベル」
「……旅行で、気分転換出来てるんじゃない?」
「そーかなぁー……」
大袈裟に腕を組み首をかしげながら、楓は考え込むふりをしつつ咲を観察する。咲に自覚がなくとも、柊の上機嫌に咲が無関係なはずはない。
そしてあれほど恥ずかしがって着ていたワンピースを購入していた咲。柊がゴキゲンなのも、アウトレットモールから帰ってきてからだ。
(まあ、気まずくなったりケンカするよりはずっといいけどね)
忠道の思惑としては、柊が咲に遠慮なく我儘を言えるようになることで、この先他の人にも頼れるようになってほしい、ということなのだろうが、もしかしたら事態は別の方向へ向かいつつあるのかもしれないとも感じていたのだった。
◇◆◇
「家族旅行?」
『はい、明後日まで』
「ふうん……、で、それが?」
『それが、って……、あの、一応ご報告として』
「ああ、そういうことね。ありがと」
まだ何か言いたそうな福田の電話を一方的に切って、沙紀は目を閉じる。仕事も終わり、一人だけで様々なことに思いを巡らせる夜の数刻は、沙紀にとっては無くてはならない大事な儀式だった。
それを教えてなかったとはいえ、邪魔してきた福田には若干の苛立ちを覚えていた。情報提供に対し、何某かの見返りを期待していたのだろうが、ただ旅行に行ったというだけの事実では、さほど価値を感じなかった。
柊には数週間会えていなかった。連絡をしても出てくれないし、さすがに自宅まで押しかけることはしたくなかった。自分を認めたら柊は絶対に避けるか逃げるか無視するかするだろう。そんな彼に追いすがるような無様な真似は、何があろうとしたくなかった。
ただ。
(会いたいって、思っちゃうのよね)
自分と柊が会ったところで、することは一つだけだ。お茶しながら話をする話題もなければ、二人で作り上げる何かもない。体を合わせる以外には何もない関係。そして柊は、きっともう自分とそうするつもりは無いのだろう。
自分は柊に会いたい。けれど、柊の側には理由も願望も、無い。
柊が求める相手はたった一人。
その一人を脳裏に思い浮かべる。努めて理性を保とうとするが、容姿、声音、振舞を思い出すほどに、苦々しい苛立ちが胃液のように込み上げてくる。どうしても邪魔なのだ、あの存在が。
手を伸ばし、テーブルからブランデーグラスを取り上げる。中身を一気に飲み干すと、苛立ちはそのまま性欲に置き換わった。スマホを手に取り、相川宗司に連絡する。この際相手は誰でも良かった。
三十分以内に沙紀の部屋に来れる人間なら誰でもいいと告げると、電話の向こうで冷たく笑う宗司の気配が伝わってきた。
しかしなぜか宗司には苛立ちを感じない。きっと自分とこの男は同類なのだと、ふと納得する何かがあった。
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