第137話

 柊と楓が勉強している間、咲は一人で大浴場に来ていた。

 自分も行きたいと騒ぐ楓を宥め、『後で一緒に来ようね』と約束したため、あまり長風呂にならないよう気をつけなければいけない。


 半露天のような造りになっていて、陽が落ちかけた空が見える。夕日が反射して湯がオレンジ色だ。夏の夜は遅い。まだ明るくても、時間的にはそろそろ夕食かもしれない。

 普段なら食事や入浴の準備に手をつけ始める頃だが、こうして旅行へ連れて来てもらったためその必要はない。申し訳ないと思いつつ、有難く甘えることに決めた。


 柔らかい湯を手で掬って肩に掛ける。体だけでなく、心の奥深いところまで潤っていくような錯覚を覚えた。

 気持ちよさに目を閉じると、また同じ光景がよみがえってきた。


◇◆◇


 いきなり強く抱き寄せられ、咲は体の動きも思考も停止してしまった。

 なぜこうなっているのか分からなかった。映画を巻き戻すように数刻前の自分たちの行動を辿り直すが、それでも混乱は収まらない。


「動かないで、お願い」


 すぐ耳元で、柊が囁く。咲が動けなくなるほどの強い腕の力とは裏腹に、声は小さく、微かに震えていた。


「少しだけでいいから」


 そして更に力を込めた。細い柊の体は肉づきより骨のほうが多い胸板にぐっと押し付けられて、咲は肩や鎖骨が痛いくらいだ。けれど、だから放して、とは言えなかった。


 以前にもしがみついて来た柊を抱き止めたことがある。あの時と同じように、動かせる範囲で腕を伸ばし柊の背を抱いた。

 なぜこうなっているのか、やはり理由は分からない。だが、柊が何かに傷ついているように感じたからだった。


 思わず小さい子にするように『よしよし』と背をさすると、柊がかぶりを振る。


「違うよ、そういうんじゃなくて……」

「そうじゃなくて?」


 続きを聞こうと問いかけるが、柊から返事は無かった。試着していたワンピースに皺が寄ってしまうほど、長く強く、柊は咲を抱きしめ続けていた。


 結局、そのワンピースは、棚に戻すのは気が引けたので、買って帰ってきた。


◇◆◇


「えびー! きゃー、めっちゃおいしそう!」

「もう少し焼いたほうが美味しいわよ、きっと」

「咲さん、一口如何ですか。スッキリしてて飲みやすいですよ」

「楓、お前! 座布団の上でジャンプすんなよ!」


 夕食は少し遅めの時間にレストランの個室を予約した。大人二人は温泉を使った後だったので浴衣に着替えている。

 何度か咲の部屋に泊ったこともあるのに、柊はドキドキが止まらなかった。その時は自分には女物の浴衣を寝間着代わりに着せておいて、咲はスウェットだった。正直不満だったが、今となってはそれでよかったのだと思える。今のような姿の咲と部屋に二人きりなど、自分に自信が持てなかった。


 咲は忠道に勧められ、ガラスの猪口に冷酒を注いでもらっている。器に添えられた腕が真っ白で見惚れていたら、ふいに昼の一件を思い出してしまった。カッと赤くなったであろう自分をごまかすため、楓の前から刺身を取り上げる。


「ちょ! ウチの!」

「お前はエビがいいんだろ」

「それもー! 咲さーん、柊がウチのお刺身取ったー!」


 ぎゃーぎゃー騒ぎながら皿を奪い合う二人に、咲も忠道も笑い転げた。


「はいはい、もう、二人とも」

「追加注文すればいいだろう、刺身がいいのか? ステーキもあるぞ」

「楓ちゃん、私のあげるから、ね」

「あ、俺そっちがいい」

「こらー、柊!」


 個室にしてよかったと、忠道はため息をつく。そして予想通り、咲と楓のお蔭で無邪気な息子の我儘っぷりを堪能出来ていることに、心から満足していた。


 

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