第136話

『ここ立ってて』


 メンズもののシャツを物色していたら、突然楓に腕を引っ張られ、試着室の前に立たされた。抗議しようとしたら口を塞がれ、いいから立ってろ、とだけ言われ、自分はどこかへ行ってしまった。

 そういえば楓が連れまわしていたはずの咲の姿が無い。どこだろうかと楓が向かった先に姿を求めようとしたところで、カーテンが開いて中から人が出てきた。


 薄い色のワンピースを纏った咲が、目の前に現れた。

 柊は、目線も意識も釘付けになったまま、動けなくなった。


「すっげー、可愛い……」


 気が付けば、本心が口から洩れていた。

 言ってからハッとして口を押えたが、既に遅し。咲はみるみる真っ赤になって、試着室に飛び込んでしまった。


「ごめっ……、咲さん、出てきて」

「やだ! 恥ずかしい」

「なんで?! めっちゃ綺麗だよ」

「ウソ! 似合ってないもん、こんなかわいい服」

「似合ってる、すげー似合ってる。だからごめん、変なこと言って」


「……お客様、どうされました?」


 試着室のカーテンを挟んですったもんだしていると、揉め事かと心配したらしい店員が声をかけてきた。慌てて柊は首を振る。


「あ、大丈夫です。恥ずかしがって出てこないので」

「あらまあ。では、ごゆっくり」


 有難いことにすぐ離れてくれた。ホッとして再び咲に声を掛けようとしたら、今度は楓の声が近づいて来た。

 邪魔されたくない、と思った柊は、咄嗟に試着室に飛び込んだ。


「ちょっと、柊くん?!」

「ごめん、楓が……」

「楓ちゃん? だったら呼んだほうが……」

「いいんだよ、あいつは」


 しっ、と咲に静かにするように言うと、耳を澄ませる。次第に楓の声が遠のいていった。ほっとして緊張を解くと、今度は至近距離の咲が目に入った。

 先ほどのワンピースを着たままで。


「柊くん、あの、着替えたいんだけど……」

「なんで」

「なんで、って、だって……」

「すげー似合ってる。そのまま買って着てればいいじゃん」

「……こんな服買っても普段着ないから」

「着ればいいじゃん。ほら、うちに来る時とかさ」


 言いながら、会社には着ていってほしくなかった。あの上司の男に、こんな愛らしい咲を見せたくない。


 うーん、でも、とぶつぶつ悩んでいる咲が、いつもよりずっと小さく弱々しく見えて、ふとその細い肩に触れたくなって、手を伸ばした。


「っ……」


 予想しなかった柊の動きに驚いた咲が離れようと半歩下がる。しかし狭い試着室の中だ、鏡にぶつかった反動で、逆に柊の胸に飛び込むような形になってしまった。


「ごっ、ごめん」


 身をよじってどうにか姿勢を保とうとしたが、無理だった。それより早く、柊が咲を抱き止め、そのまま抱きすくめてしまった。


◇◆◇


「やっぱ勉強すんのかー……」

「そういう約束なんだよ、親父たちと。ほら、また同じとこ間違ってんぞ」

「あり?」


 楓の英訳文をチェックしながら、構文の間違いを指摘する。世界史よりは真面目に取り組んでいるようだから、英語は嫌いではないらしい。


「関係代名詞は省略されることが多いんだよ。不自然な動詞があったら文を分けて考えろ」


 英文を分節に分けながら説明する。ふんふん、と頷きながら聞いている楓が、チラリと上目遣いで見返してきた。


「なんだよ」

「機嫌良いね。なんかあった?」

「……いいから、もう一回やってみろ」


 テキストを楓に突っ返し、自分の参考書を開き直す。向かい側に座っている楓がじーっと見つめてきていることを感じ取り、必死で平静を装った。


 昼間の出来事だけは、絶対に知られたくなかった。

 楓が、ではない。自分と咲だけの、二人の想い出として大事にしたかったのだった。



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