第135話

「きゃー、めっちゃ広いー。うわー、見て見てお風呂ついてるよ」


 旅館に着き、部屋に案内されると、楓が居室を駆け抜けて中庭まで飛び出した。夏の昼下がり、まだ気温の高い時間帯だが、風通しがいいのか部屋の中は過ごしやすそうだった。


「お夕食はレストランでもお部屋でもどちらでも大丈夫ですので、お決まりになったらフロントへご連絡ください」


 人数分のお茶を用意し、必要な案内を済ませ下がろうとする仲居に忠道が心づけを渡す。はしゃぐ若い二人は気づいていないようだった。咲はいつ費用について申し出ようか、実はずっと悩んでいる。しかしそれに気づいているのか、あえて忠道は咲が言い出す隙を与えなかった。


「大浴場もあるらしいよ。後で行っておいで」

「うん! 咲さん、一緒に行こうねー」


 と咲へ声を掛けながら、楓はニヤリと柊を見遣る。何が言いたいのかが伝わってきて、柊の表情は途端に苦くなった。


「なー、まだ夜まで時間あるじゃん。どっか行こうよ」


 風呂に行かれてしまっては、自分は咲とは別行動せざるを得ない。それでは旅行に来た意味がないのだ。柊は他の手段を探す。前もって調べ来ればよかったと今更後悔するが遅かった。

 忠道は遊ぶ気満々の柊に呆れる。


「お前と楓ちゃんは勉強するって言ってただろう」

「うっ……、で、でもさあ、着いてすぐってさすがにつまんないていうか」

「あー、ウチ、アウトレット行きたい! 近所にあるよね」

「楓ちゃんまで……。咲さん、いいでしょうか、子どもたちが納得するまで」


 もちろん、と返事をしつつ、咲は荷物を片付けたり上着を畳んだりしている。忠道は慌てた。はさせないために旅館を選んだのに、意味がなくなってしまう。ここは子どもたちの意見を受け容れたことにして、部屋から咲を連れ出そうと決めた。


◇◆◇


 誰もいない桐島家の広いリビングを一通り掃除し終わって、福田は一息いれる。散らかす人も汚す人もいない家だから、ごみを捨てて掃除機を掛け、ある程度雑巾がけをすれば綺麗になってしまうため、常に時間が余ってしまうのだった。


 今頃はどんなふうに過ごしているのだろうかと、また想像を巡らしかけ、慌てて止めた。

 普段からほとんど自宅にいない忠道と、自室にこもるほうが多い柊なのに、不在となると急に家の空気が冷たくなったように感じる。いたところで、特に柊は自分とは言葉も交わさないのだが。


 戸締りをしてくれれば出掛けても構わないと言われている。しかし、二人が帰ってきた時は絶対に出迎えようと決めているので、それはしないで、別の仕事にとりかかろうと腰を上げた。


 こんな時、愚痴の一つもこぼす相手のいない自分が、一番みすぼらしく、苛立たしかった。


◇◆◇


「次はこっちねー。あ、このカーデも一緒に!」

「楓ちゃん、そんな次から次に……」

「いーじゃん、試着なんだし。折角だから着てみなよ。バーゲンやってるしさ」


 そう言いながら、ワンピースとカーディガンを押し付けて咲を試着室に押し込みカーテンを閉める。外から『あれもヤバいー』とはしゃぐ楓の歓声が聞こえた。咲は諦めて、持たされたワンピースを試着する。

 オーガンジーの薄い生地のフレアスカートが、愛らしすぎて気恥ずかしい。もう三十も過ぎているのに、と思いつつ、何度拒否しても諦めなかった楓を思い出して鏡を見た。


(可愛いけど、買ったところで着ることは無いだろうし……)


 職場に着ていくデザインではないし、家では尚更だ。そう考えた時、自分は職場と自宅の往復だけの生活だと再認識する。もうずっとそうした生活だったから、意識すらしてこなかった。


「楓ちゃん、着たよー」


 シャッと音を立てながらカーテンを開けると、目の前には目を丸くして立ち尽くす柊がいた。


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