第125話

 偶然リビングの前を通りすがった時、中から聞こえてきた会話に足が止まった。

 足だけではない、時間も鼓動も、全て止まったように感じた。


『柊くんのお母さん代わりになる』


 中にはあの女だけではない、桐島も、息子の柊も、楓もいる。その場で話すということは、全員が同意の上での会話ということだ。


 福田は部屋を出てきた理由も忘れ、フラフラとした足取りで自室へ戻った。音を立てないよう扉を閉めると、呆然としたまま携帯電話を手に取った。


◇◆◇


「柊くん、気分悪くしちゃったでしょうか……」

「咲さんが責任感じる必要はありませんよ。確かにあいつにとっては寝耳に水でしょうし。甘えろ、と言われても戸惑うだけでしょう」


 咲は忠道の言葉に頷きつつ、自分のことばかり考えて急ぎすぎてしまっていたことに気づき反省していた。


(いきなり言われたってびっくりするだけよね。親戚でもなんでもないんだし……。もっとちゃんと話をしてから切り出せばよかったのかな)


 この後どうすればいいだろうと考えこんでいたら、リビングに楓が戻ってきた。


「柊はちょっとほっといてやって。なんか混乱してるっぽい」


 咲たちはホッと一息つく。やはり同年代の友人は特別なのだと思い知る。


「楓ちゃんがいるなら、今更私がしゃしゃり出ることもないのかな」

「いや、私が父として何もしてこなかったせいなんですから」

「ちょちょちょ。待ってってば」


 早くも前言撤回しそうな大人たちに、楓は慌ててストップをかける。


「言ったじゃん。考える時間あげてって。柊は柊で考えてることあるんだから、それを聞いてから判断してよ。せっかち過ぎだよ、おじさんも、咲さんも」


 呆れたような視線を交互に送る。咲は再び恥じ入るしかなかった。


「そうだね……。うん、柊くんの返事を待つよ」

「楓ちゃん、遅くまでありがとう。咲さん、明日もお勤めでしょう、お送りしますよ」

「いえ、タクシーで……」

「似たようなものです。さあ、車出しますんで」


 キーを取りに一旦リビングから出た忠道に続いて、荷物を持って出て行こうとする咲の腕を、楓が後ろから掴んだ。


「柊のこと、諦めないでね」

 驚いて振り向いた咲に楓が放った言葉が、更に咲を驚かせた。

「諦める、って……」

「さっきみたいに簡単に引っ込めないで。あいつ、めんどくさい性格だから分かりづらいし、ちゃんと反応しないことがあるけど、でも咲さんのことは本当に」


 大好きなんだよ、と言いかけて、あえて口ごもる。


「頼りにしてるから」


 じっと見つめ返してくる楓の真剣さに、先ほどの自分の翻意が恥ずかしくなる。そうだ、多少の抵抗や反発は予想してたはずではないかと思い出した。


 咲はゆっくりと、優しく微笑みながらしっかり頷き返す。楓も安心したように、咲を掴んでいた手を離した。


◇◆◇


『家に?』


 福田は声を潜めて話し続ける。電話だと、勢い声が大きくなりがちだ。この部屋に桐島家の人が自ら来ることは無いと思いつつ、用心のため声を落とす。


「はい。先日ご報告した、柊さんの知り合いという女が今日も来て……」

『で、家族になるって言ったのね』

「はい」


 福田は間違いないというように断言する。母になるということは、そいう言うことだろう、と。そしてそれは、桐島忠道との再婚だ。


『で、柊くんも受け入れたの?』

「それはまだ……部屋に籠ったままなのでよく分からないんですが」

『そう……。分かった、ありがとう。今回の分はまた振り込んでおくわ。また何かあったら教えてね』


 通話を終え、無意識に詰めていた息を吐く。福田は再び屋敷の中に意識を戻したが、何も物音は聞こえなかった。




 スマホをテーブルへ戻し、沙紀は煙草に火をつけた。ゆっくり吐き出すと、暗い室内に煙が漂う。ぼんやり眺めつつ、頭の中は違うことを考えていた。

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