第124話

「私が、柊くんのお母さん代わりになるってこと……。どうかな」


 驚いている柊に、咲の言葉と笑顔が追い打ちをかける。


(お袋代わり、って……。咲さんが……俺の?)


 混乱して言葉を発せずにいる柊に、忠道は話を続ける。


「お前は頭もいいし要領もいい。それに俺は助けられてきたわけだが、とはいえもっと小さかった時は色々我慢もさせただろう。その過程で、本来なら誰かに甘えたりわがままを言ったりする場面で、そうしてこなかった。その経験不足が、いつか大人になった時、お前を苦しめるんじゃないか、と、不安なんだ」


 忠道の話を、咲は頷きながら聞いていた。しかし当の柊は、父の話を、音として耳に入ってくるだけで、理解する余裕は無かった。


「咲さんが、俺の……」

「そんな、すぐに、なんて思わなくていいの。ただ、前に一緒に学校に行った時みたいに……」


 咲は、叔母と偽って柊の三者面談に同席した時の話を喩えとして持ち出した。何か身構えているようだが、あの時の関係性を思い出してもらえれば、分かりやすいかと思った。


「お母さん、なんて言われると身構えちゃうよね。でも」

「ごめん、俺、ちょっと……」


 咲の話を遮り、柊はふらふらと立ち上がる。驚いて見上げれば、顔色まで悪かった。


「どうした、体調でも悪いか」

「何か私の料理にあたったとか……。お腹痛いとか、ない?」

「いや……、ごめん、ほんとに」


 左右から心配されるが、その息の合った様子も柊を苦しめるだけだった。離れたダイニングテーブルから様子を見ていた楓は、ため息をつきながら立ち上がる。


「ウチが部屋まで連れてくから、おじさん達はそこにいて。……ほら柊、いくよ?」


 楓の言葉に答えるように、柊は小さく頷く。立ち尽くす大人たちには一瞥もくれず、ゆっくりと自室へ戻って行った。


◇◆◇


「ほら、とりあえず座んな、って、あんたの部屋だけどさ」

「……サンキュ」

「どーいたしまして。なんか飲み物取ってくる?」


 柊は首を振って拒否する。しかし楓にはいなくなってほしくなかった。そしてそれが通じたかのように、楓は柊の勉強机の椅子に腰を下ろした。


「どうよ」

「どう、って……」

「咲さん達の計画。咲さんがあんたのママ代わりになるってやつ」

「……俺、どうしたらいいんだ」


 柊の胸の内は、桜が満開の横で大雪が降って富士山が噴火した後に津波に襲われて流されそうになる寸前のような状態だった。まずは落ち着かなければ、と思うそばから大きな感情に揺り動かされ、考え事をする余裕などない。


「咲さんと一緒にいられるんだよ。それは嬉しいでしょ」

「だけど……」

「本当のママじゃないんだから、好きでいるのはいいんじゃない」

「でも……」

「まあ咲さんも会社あるし? どれくらい一緒にいられるか分からないけど、少なくともあんたが咲さんに会いに行くのを止める人はいなくなるよ」

「だって……」

「どうしたいの、あんたは」


 それまでの言葉とはうってかわり、最後の一言だけ、楓の声音は急に真剣味を帯びていた。低く無感情に響くそれは、濃い靄でおおわれていた柊の脳裏を一気に引き裂く刃のようだった。

 ハッとしたように顔を上げると、声とは裏腹にやけに優し気に笑う楓と目が合った。

 

「咲さんと一緒にいたいの? 恋人になってほしいの? 彼女に幸せになってほしいの?」

「俺は……」

「あんたのことだから、どうせ一人でぐるぐる妄想してるんだろうけどさ、それが現実になろうがなるまいが、結果としてどうしたいかじゃないの、大事なのって」

「楓、お前……」

「ウチは、咲さんに幸せになってもらいたい」


 焼肉屋で涙を流していた咲。もう一度母親になれるかも、と微笑んでいた咲。

 他人に親切に振舞うだけの咲ではなく、彼女自身の感情を見せ始めたこの機会を、楓は逃したくなかった。


「咲さんは、これできっと幸せになれると思う。あんたはどうか知らないけど……。それだけ言っとくわ。あとは一人でゆっくり考えな。じゃね」


 パタン、と扉が閉まり、一人きりになる。

 津波と噴火と大雪で荒れ狂っていたはずの柊の胸の内は、すっかり静かになっていた。

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