第121話

 バン! と音を立てて、よろけた忠道が壁にぶつかった。体力自慢ではない柊のパンチだから、さして威力があったわけではないが、不意をつかれたために体がバランスを崩しただけだ。それでも、周囲の社員がその場にくぎ付けになるには十分だった。


「……どうしたんだ、柊」

「親父のことは信じてたのに……」

「だから、何のことだ? 咲さんと会ったのは」

「もういい!」


 そう言い残すと、柊は父を一瞥もせずその場から立ち去った。柊がいなくなってやっと、周りにいた社員は忠道に手を貸し、怪我を気遣う余裕が生まれた。


◇◆◇


「またぁ?」


 夜、部屋でごろごろしていた楓のところに、桐島家から福田が尋ねてきたらしい。対応した母が用件を伝えに来た。

 曰く、柊が帰ってこない、と。


「ケータイかければいいじゃん」

「連絡が取れないから心配されてるんでしょ。ほら、あんた出て」


 ほらほら、と部屋から引っ張り出され、楓は玄関まで赴く。すまなそうに頭を下げる福田に手を振った。


「いつものことじゃん? 明日には帰ってくるよ」

「それが……」


 言いづらそうに顔を背ける福田に、何か事情があると察した楓は、玄関の母のサンダルをつっかける。


「ママ、ウチちょっと柊ん家行ってくる」


◇◆◇


「殴った? 柊が、おじさんを?」


 驚きのあまり、楓の声は所々ひっくり返っていた。


「なんで、また……」

「うん。……昼間、柊が会社に私を尋ねて来てね。咲さんと二人で会ったのか、と問い質してきた。そのこと自体を隠すつもりはなかったんだけどね」


 必死の形相で、泣くのを堪えるような目で睨みつけてきた。その様子が小さな頃の柊と重なり、懐かしさと愛おしさで、つい笑いが漏れてしまった。


「それがいけなかったのかな、パチン、と一発ね」


 言いながら忠道は、自分の左頬を叩く真似をした。楓は思わず忠道の顔を見つめたが、怪我をしている様子は無かった。


「びっくりして何も言えなかったら、そのまま駆けだして行って、今の時間まで帰らないんだ。ただの夜遊びや外泊なら、まあ帰ってくるだろうと思うんだけどね、昼間の件があるし、電話もつながらないしで」


 お手上げだ、というジェスチャーをする忠道に、楓も苦笑を返さざるを得ない。確かに普段とは事情が違うようだった。


「咲さんには連絡した?」

「いいや」

「なんで? 咲さんのところにいるかも」

「ああ。ただ、彼女のところにいなくて、家にも帰っていないと知って心配させるのも……」

「おじさん、それ今更だよ」


 ため息をつき、楓は自分のスマホを取り出す。咲の番号を表示して、通話ボタンをタップした。


「咲さんに、柊のママ代わり頼んだんでしょ? だったら今更隠し事なんて変だよ。一緒に考えてもらおうよ」


 忠道に向かってきっぱりと言い切る。何故知っている、と驚いた顔をしているが、自分と咲の関係をなめるな、と威張りたい気分だった。


『楓ちゃん? どうしたの?』

「あー咲さんごめん、そっちに柊行ってない?」

『柊くん? ううん、どうしたの?』

「あのねー」


 今しがた忠道から聞いた話をそのまま伝える。電話口で咲が息を飲む気配がした。案の定、すぐにそちらへ向かうと言うと、電話は切れた。


◇◆◇


 二十巻くらいあるマンガを全部読み通し、ぬるくなったコーラを一気飲みして、柊は一息ついた。

 父を殴って、というか叩いてオフィスを飛び出したものの、行き場がないことに気づく。家に帰る気はさらさらなかった。かといって今の状況で咲を頼ることも出来ない。とりあえず、と、目に付いたネットカフェに入った。

 時計を見るとまだ夕方だった。


(もっと長いマンガにすればよかったな。でももう飽きたな)


 行きたい場所も、行ける場所もない。

 そして、誰に何を訴えればいいのか分からない、悲しみなのか怒りなのかも分らないものに、柊の胸の内は占領され続けていた。

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