第98話
「お茶はこちらの棚に。同じ場所にコーヒーも入っております。それからお茶請けは……」
キッチンの中を忠道に説明しながら、福田はまるで自分がここから追い出されるような心持でいた。
『週末はゆっくり温泉でも行ってきてください。本当に毎日ありがとうございます』
先日唐突に休暇と併せて特急列車のチケットを渡された。これまでの感謝のしるしと言われたが、望んで行くわけではないのだから少しも嬉しくなかった。
自分が不在の間、食事はどうするのかと聞くと、来客と一緒に外食するという。
福田はドン!と心臓を殴られたようなショックを得た。客とは、先週息子の柊が連れてきたあの女に違いない。自分を追い出し、三人で寛ぐのか。それではまるで家族の団欒だ。チケットを受け取るために差し出した手の震えを止めるのが精いっぱいだった。
「分かりました。いつも綺麗にしてくれてありがとう。出来るだけ散らかさないよう頑張りますよ」
そう言って微笑む忠道もまた、普段よりも楽し気に見える。客が来るからだと思えば頷けるが、自分が居なくなることが嬉しいのでは、と勘繰る気持ちを抑えられない。
「では、お言葉に甘えて……」
「はい、ゆっくりしてきてください」
にこやかに見送られ、桐島邸を後にする。一泊二日、明日の夕方にはまた戻ってくるのに、かけがえのない場所を手放してしまったような後悔が消えることはなかった。
◇◆◇
「俺、駅まで迎えに行ってくる!」
階段から駆け下りてきた柊が、リビングの父に声をかけた。
「それなら車で……」
「いーんだよ! 親父はお茶でも飲んでろよ」
「おい、柊……」
呼び止めようとしたが無駄だった。大きな開閉音を立てて、そのまま飛び出して行った。待ちきれないと言った様子が、微笑ましいやら気恥ずかしいやら、忠道は一人で赤くなり、立った次いでにスリッパや茶の用意を始めた。
「咲さーん! こっち!」
駅の改札を出て待ち合わせ場所を探そうとしたところで、大通りの反対側から名を呼ばれ、咲は驚いてそちらを向く。はたして柊が両手を大きく振り、駆け出してくるところだった。当然、周囲の注目の的だった。
「おはよ! よかった、すぐ会えた」
興奮しているのか、すぐ間近にいるのに柊の声の大きさは変わらない。何事かと目線を寄越す通行人に、咲はいたたまれない。
「柊くん、声大きいから……」
「え? そう? まいいや、ほら、うちこっちだから、行こ?」
咲の手の荷物を引取り、勢い任せに手を繋いでから急に恥ずかしくなったが、咲も振り払う様子がないので、そのまま家まで歩いた。
(昼は店屋物でいいかな。夜はまた親父に車で連れて行ってもらって……)
今日は丸一日一緒にいられると思うと、ゆっくり歩く咲のペースすらもどかしかった。もちろん咲は大事なお客様だ。自分が全部接待するのだと意気込みつつ、しかし何をすればいいのかは全く分かっていなかった。
「咲さん、昨日まで仕事だったんだよね。ごめん、疲れてない?」
「大丈夫よ、疲れるほど働いてないし」
「今どんな仕事してるの?」
「事務とか、電話出たり、お客様にお茶出したり……。前の仕事は立ち仕事だったから、それよりは大分楽なの」
「お茶? いいなぁ、咲さんがお茶入れてくれるんだ。俺もその会社行きたい」
「喫茶店じゃないんだから……」
トンチンカンな柊の応答に咲は笑い転げた。話し続ける柊を隣から見上げる。去年はそれほど無かったはずの身長差に、時間の流れを感じながら。
「あーあ、もう着いちゃった」
「急いで歩いてたの、柊くんじゃない」
「でもさぁ、家には親父っていうお邪魔虫がいるし……」
ぶつぶつ文句を言いながら自宅の玄関を開けたところで、先に柊がフリーズした。
「おっかえりなさーい!」
二重の意味で満面の笑みを浮かべた楓が、両手を広げて二人を待ち受けていたのだった。
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