第92話

「しかし、柊が料理ですか……」

「ええ。でもあまり教えてあげられませんでしたけど」

 一緒にキッチンに立った時のことを思い出す。ベーコンエッグやオムライスなど、二人で作ったものを一緒に食べたり、咲に着せられたエプロンに気恥ずかし気にしていた様子を伝えた。忠道は声を上げて笑った。

「エプロン姿なんて、私も見たことありませんよ」

「結構似合ってましたよ」

「いいこと伺いました。家でも何か作ってもらおうかな」


 福田にも下がってもらったので、忠道が立ち上がり茶のお替りを注ぐ。咲は目礼を返した。

「あいつから、母親の話は?」

「いない、ということだけは……」

 忠道は頷く。身内の恥をさらすことになるが、この人になら話しても大丈夫だと思えた。


「まだ柊が三つにならない時でした。離婚届だけ置いて出ていきました」

 仕事が忙しく、この家に妻と幼子を二人切りにした。帰宅時間も不規則な上、オフィスで寝泊まりすることも多かった。家を出る前から男がいたとか注進してくる者もいたが、それが事実であったとしても、自分に責任があると思っていた。

「以来、一度も連絡はありません。情けないことに私も探したり連れ戻したりする気がありませんでした」

 咲は静かに頷いた。忠道を慮っての頷きだったが、ひとりきりで育児をするストレスや不安を想像すると、出ていった柊の母を責めることも出来ないと思った。


「柊も不思議と母を恋しがることもありませんでした。昔からしっかりした子でした」

「しっかりした……」

 咲はつい、思っていたことが言葉になっていた。顔を上げた忠道と目が合う。余計なことを言ったかと思ったが、言葉を続ける。

「もしかしたら、我慢していたのかな、と。その……お父さんが忙しそうだから、とか」

 忠道の話を聞いて、ストン、と腹落ちした。何故柊が自分に執着するのか。

 当然の話だった。母親の代わりだったのだ、と。

 自分が柊を、誠の身代わりだと思って依存していたのと同じように。


「お父さんが大事だからこそ、言えないって、ありますよね」

「そう、かもしれませんね。いや……お恥ずかしいばかりです」

「そんな。ご家庭にはそれぞれご事情があるものでしょう」

「真壁さんは、ご結婚は?」

 話の流れから、自然な質問が返ってきた。咲は再び身構える。

「……以前、していました。息子が亡くなって離婚しましたが」

「失礼しました、無神経なことを」

「いえ、いいんです。病気だったので」

「……ご苦労されてるんですね」


 シンプルな慰めに、咲はゆっくり癒された。リビングの大きな窓からは夏の強い日差しが輝いている。普段はうるさく感じる蝉の声が、沈黙を許してくれている気がした。


◇◆◇


(なんだよあれ……。なんで親父と咲がいい感じになってんだよ!)


 部屋へ行っていろ、と言われて引き下がったが、気になってすぐ戻ってきた。スリッパをはいたままだと足音でバレるので、裸足でそっと近づき聞き耳を立てる。

 最初に聞こえてきたのは補導された話で、いきなり焦った。後で怒られるかもしれないが、柊は悪くないと咲がフォローしてくれたから、大丈夫だろう。


 母を恋しがらなかった、と父が言った後で、咲が父とは違う解釈をしたのは驚いた。ただ、咲の言うように、自分は我慢していたのだろうかと考えると疑問だった。

 父も自分も放り出して逃げた母のことは、面影も覚えていないが存在自体抹消したいくらい不愉快だった。柊の女性不審の根は間違いなく母だ。だからこそ、宗司の会社を手伝ってあんなバイトをしている。


 嫌っているのは、こだわっているのは執着の裏返しなのだろうか。

 そう言われるとその通りのような気もするが、今となってはどうでもいいと思えた。

 今の柊がこだわっているのは咲一人で、それ以外はどうでも良かった。興味が無かった。それが人として冷たいとか間違っているとか言われるかもしれなくても、柊にとっては紛れもない真実だった。

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