第88話

「元気なんかじゃない。全然大丈夫じゃない。ずっと……ずっと苦しかった。会いたかった。どこにいるのか分からなくて、二度と会えないと思って辛かったよ……」


 抱きしめるというよりも、縋りつくような必死さで言い募る柊の言葉に、咲は足元が崩れていくような気がした。

 恐れていたことだった。自分が姿を消すことでこの子へ与えるショックが大きかったらどうしようという不安が的中していたのに、そこから自分は逃げていた。自分を守るために。孤独という牢獄に、この子だけ置き去りにして。


 気が付けば、自分の両手を柊の背に回していた。

 咲の動きに気づいたかのように、柊は更に腕に力を込める。


「なんでいなくなったの? 俺が邪魔だった? しつこかった? うざかった? だったら言って欲しかった。全部言われた通りになんてできなかったかもしれないけど、でも咲さんが迷惑じゃないくらいには我慢出来たよ、きっと。俺は」

「違う、迷惑なんかじゃ」

「咲さん、俺、咲さんが好きだ」

 心の一番きれいな一滴を絞り出すような、そんな言い方だった。柊の口からこぼれたそれは、そっと咲の胸に落ち、あっという間に浸透して広がった。


「咲さんの迷惑になりたくない。でも会えないのも辛い。俺……どうしたらいいの?」

 震えるような声と、季節のせいだけではない柊の体温が、今ここに彼がいることを咲に実感させる。柊が咲を抱きしめる力は一向に弱まらない。決して離すまいとするかのように。

 咲はそっと柊の背を撫でながら、自分の中に開いていた穴が、ゆっくりと埋まっていくのを感じていた。


「柊くん、私、ちゃんと話していないことがあるの。……聞いてもらえる?」

 そして静かに柊から体を離す。密着していた部分に、エアコンの冷えた空気が忍び込んできて、熱くなっていた心と頭を冷やす。しかし名残惜しさもまた、感じていた。


◇◆◇


 咲の話を一通り聞き終えて、柊は氷が解けたアイスコーヒーを一気飲みした。

「お替りする?」

 咲が申し出てくれたが、首を振って辞退した。


 咲は自分のこれまでを、柊に全て話した。結婚して一年後に生まれた息子を突然死で亡くしたこと、それが理由で離婚して、嫁ぎ先とも実家とも疎遠になっていること、墓参りだけは欠かさないことと、最初に柊と会った時「マコト」と名乗られて驚いたこと、自分が柊を息子の身代わりのように思い込み依存してしまったことと、それを後悔したため姿を消した事を。


「身代わり……」

「墓参りの帰りに、偶然声をかけてきた人が同じ名前って知って、勝手にそう思い込んだ。誠が引き合わせてくれたんだ、って」


 柊はそっと首を巡らす。写真立ての中で笑っている赤ん坊を見つめた。

「俺、あの子じゃないよ」

 柊の言葉に、咲は頬を張られたような衝撃を感じた。そうだ、柊は、誠じゃない。

「ごめん、そうだよね、本当にごめん」

「ううん、そうじゃなくて……」


 テーブルの反対側から手を伸ばし、咲の手を握る。

「俺は赤ん坊じゃない。だから、咲さん一人で何もかも背負わないでほしいんだ」

 部屋が冷えているのだろうか、咲の手が冷たい。温めるように両手で包み込む。

「咲さんが俺に依存したって、言ったよね。俺、すげーうれしい。たとえ息子さんの身代わりでも。俺といて、少しは楽しかった?」

「それは……、もちろん、楽しかった」

「嬉しい、良かった」


 柊は心からそう思う。嫌われていなかった。迷惑はかけていたから、それは反省しないといけないが、少なくとも咲にとって自分はマイナスなだけの存在ではなかったのだと、もうそれだけで、今は十分だった。


 握った手を咲が振り払わないことも。確かにこの手で触っているのに、幸せ過ぎて幻を握り締めているかのようだった。


 

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