第87話
「はい、どうぞ」
咲はアイスコーヒーを柊の前に置く。何故かかしこまったように正座している姿が可愛らしく、思わず吹き出してしまった。
「笑わなくても……」
「ごめん。でも、もっとリラックスすればいいのに」
「うん……」
柊は言われて初めて、自分が正座していることに気づき、ごまかすように笑いながら脚を崩した。
なぜこんなに緊張しているのだろう。会いたくてたまらなかった咲が目の前にいて、部屋にあげてもらい、今ここに二人きりだ。
(二人きりだから、って、何でも出来るわけじゃないけどさ……)
話したいこと、聞きたいことは山ほどある。あったはずなのに、何を言えばいいのか思いつかない。咲も何も話さないので、柊は考えあぐねた末に最後の手段を取った。
「楓が、さ、なんか、迷惑かけてない、かな」
「楓ちゃん?」
ふと出てきた名に、咲もほっとする。いつも楓には助けられる。天真爛漫な彼女の空気は、その場にいなくても和ませてくれる力を持っているようだった。
「迷惑なんて。あのね、料理覚えたいんだって。それでメールで色々教えてあげてるんだ」
「だからあいつ……」
先日、タッパーに山盛にしたチャーハンを持って駆け込んできたことを思い出す。あれは咲との接点を持つための、彼女なりの苦肉の策の成果だったのだ。
「柊くんがチャーハンたくさん食べてくれた、って、喜んでたよ」
「あれは……腹が減ってただけだよ。焦げてたし飯は柔らかすぎたし」
「初めて作ったんだから、そんなもんよ」
でもなぁ、とぶつぶつ独り言をつぶやく柊から、幼馴染同士の親密な空気が伝わってきて、咲は知らず微笑んでいた。楓の存在に救われているのは自分だけではないのだ。
「良かった、柊くんが元気そうで」
ずっと気になっていた柊と、二度とこうして顔を合わせることが無いと思っていた彼を見て、思わず本音が漏れた。安心したら、つい言葉になっていた。
だが反対に、柊は一瞬で顔色を変えた。
「元気なわけ……ないじゃん」
気が付けば立ち上がり、力づくで咲を抱きすくめていた。
◇◆◇
「えー、またいないの?」
外も暗くなっていたが、試験範囲で分からない箇所があった楓は、柊に教えてもらおうと桐島家を訪ねていた。が、応対した福田から柊の不在を告げられた。
「夕方でしたか、外出されました」
「うもーーー、肝心な時にいない。使えない男だな」
「あの、本当に柊さんの恋人って、楓さんじゃないんですか?」
「え? は? んなわけないじゃん!」
唐突な福田の問いに、楓は目を白黒させる。
一時は自分は柊を好きなのだと、それは異性としての感情なのだと思ったこともある。だが柊の相手が咲だと分かり、咲個人を好きになると、そうした感情がきれいさっぱり消えてなくなった。
「あんな手がかかる男、ウチやだよ。てかなんで? 柊って彼女いんの?」
「いえ、そう言うお話を聞いたわけでは……。ただ帰宅が遅いことが多かったり、たまに外泊もあって……。お友達と一緒なのかとも思うのですが、でもこちらに誰かが訪ねてくることも電話がかかってくることもありませんし」
「携帯で連絡とってるんじゃん。家電なんて緊張するから掛けないって」
「それはそうかもしれませんが……」
楓には言えないが、洗濯ものにキツい香水の残り香がついていたり、これ見よがしにポケットにピアスが入っていたこともあった。まるで夫の浮気を疑う妻のようだが、どうしてもそうした痕跡が気になって仕方がない。
「気になるならおじさんに言えばいいよ。ウチらが余計な口出しすると切れるよ、あいつ」
まるで経験があるかのように楓が忠告してくる。福田は先日の、窓ガラスを叩き割った柊を思い出し身震いする。確かに余計な差し出口は控えたほうがよさそうだと頷く。
それでも、柊がどこで誰と何をしているのかへの疑念に蓋をすることは出来なかった。
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