第7話
咲の様子を眺めていた柊は、黙ってベッドに腰掛ける。安っぽいスプリングが音を立てた。
「悪い……。さっき俺、急にキレた。店で」
咲に半ば背を向けたような状態で、詫びを言うのが聞こえた。咲は再び首を振る。
「私が変なこと言ったせい、でしょ。……謝らなくても」
「俺さ、お袋、いないんだよ」
唐突な柊の言葉に、咲は驚き、寸でのところで持っていたペットボトルを落とすところだった。
「だから……、あんたが、母親と行くなら、って言ったの聞いて、キレた。わかるかそんなの、って……。だから、ごめん」
「マコト君……」
気が付けば、咲は手を伸ばし、柊の背をさすっていた。
柊を気の毒に思ったわけではなかった。咲は、この偶然を、喜んでいいのか悲しんめばいいのか、分からなかった。
正しくは、安易に喜んでしまうことで再び喪失感を得ることが怖かった。それなのに、会ったばかりの目の前にいる『マコト』が、愛おしくてたまらなかったのだ。
「それ、違う」
ゆっくり動いていた咲の手を上から握り返しながら、振り向いた。
「俺の本当の名前は、
咲の視界が弾けた。もしかしたら音も、聞こえていたかもしれない。
偽名。
マコト、ではなかったのだ。
突然、見知らぬ男へ抱いていた身勝手な感情が恥ずかしくなり、咲は手を引っ込めようとしたが、柊は離そうとしなかった。
「どうしたの」
「ごめん、私……勘違いしてて」
「……何が?」
柊は咲に向かい合うように座り直す。意外と距離が近かったことにお互いに驚くが、距離を取ることはしなかった。
「マコト、って名前……」
「ああ……、偽名名乗られて、ムカついた?」
ううん、と首を振る。少しだけ頭痛が和らいでいた。
「大事な人と同じ名前だったから……。勝手に君をその人だと思ってた」
今日は命日だから、きっと奇跡が起きたのだ、なんて、恥ずかしい。そんなもの、この世にあるはずないのに。
「ごめんなさい……迷惑かけて」
挙句貧血を起こして介抱してもらって。咲は居た堪れなさに下を向く。
でも柊は、そっと咲の顎を持ち上げた。
「だから呼び止めたんだ、あの時」
羞恥で目を合わせることが出来ずにいたが、柊の声が今までになく優しかったので咲も柊を見た。
「……彼氏?」
「……息子」
今度は柊が咲の言葉に驚く番だった。
「あんた、子ども、いんだ」
「……いた、かな。……死んじゃったから」
どうして初めて会った人にこんな話をしているんだろうと、咲は自分で自分の言葉が信じられなかった。
不思議に思いつつ、でも、誠本人に話しているような錯覚は、『マコト』が偽名だと分かった今でも続いていた。
「いいぜ」
柊は親指でゆっくりと咲の目尻の涙をぬぐった。
「マコト、って呼びたいんだろ。いいぜ」
咲は柊の言葉を、信じられないというように目を見開いて聞いていた。しかしそれも束の間、間近にいるはずの柊の顔の輪郭すら滲んでしまった。
「マ、コト、君」
「自分の息子に君付け? 本当は何て呼んでたんだよ」
柊の声は楽しげに笑っていた。そうだ、自分は誠をなんと呼んでいたのだろう。あまりに小さくて、ずっとそばにいて、一生懸命考えたはずの名前なのにちゃんと呼び掛けたことはほとんどなかったかもしれない。
「マコ、ちゃん……?」
「うわ、ベタ。でもいいな、それ」
そう言いながら、柊は、咲の頬に流れる涙を吸い取るように軽くキスをした。
「しょっぺ」
「……当たり前でしょ」
咲も微かに笑いながら、しかし柊の好きにさせていた。
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