第2話 『マーケットボード』




 ひとまず、一旦落ち着こう。

 痛む体を起こして怪我の有無を確認した俺は、よろよろと当初の目的地であった愛車の軽ワゴンに向かった。

 念のため運転席ではなくスモークガラスの張られた後部座席に乗り込み、適当に丸めて放置されていた仮眠用のブランケットを助手席と運転席の背もたれに掛けて、視線除けのカーテンを作る。


「はぁああああ」


 車のカギをロックして椅子に深く沈みこんだところで、ようやく人心地つけた気がして肺から大きく息を吐きだした。

 視線を横に流せば、相も変わらず翡翠色の光が浮いている。

 作業中、正面に張り付いたままの光があまりに邪魔だったので、思わず手で振り払うような動作をした所、スライドするように横に移動したのだ。

 あらためて手を振って光を正面に持ってくる……ついでに「消えろ」やピンチインを試してみると、消えはしなかったが手指の動作でディスプレイもどきはスマホサイズにまで縮小した。


「なるほど、操作感はスマホと似てるな。というか消せないし、まさか一生これを周りに浮かせたまま生きてくことになるのか……?」


 いやいや、何か消す方法があると信じよう。

 検証は後回しにして、光るディスプレイのサイズをピンチアウトで元の大きさに戻す。

 ディスプレイというより、これはスマホ……いや、タブレットの方が近いか。今度からタブレットと呼ぶことにしよう。

 そのタブレット、最初にちらりと中身を見た時点ですでに分かっていたのだが……。


「やっぱ読めねぇよな」


 表示されている文字らしきものがさっぱり読めないのである。

 タブレット本体はいくつかのタブが上部にあったり、左右がフレームで分かれたりしていて、全体的にネットブラウザに似た造りをしているうえ指で操作できる、まさにタブレットといった感じなので、文字さえ分かれば操作は容易に思える。

 しかしその文字がさっぱり理解できないのだ。

 似ている文字といったらアラビア語あたりだろうか。ミミズののたくったような模様が並ぶ様は、文字として認識するには難易度が高すぎた。


「言語選択タブもないとか不親切すぎだろ。日本語対応くらいしといてくれよ……んん?」


 そう呟いた瞬間、理解不能言語の文字列が融けるように崩れだした。文字だったものが砂粒がばらまかれたように画面全体に広がり、そこから新たな文字列が生まれなおす。


「お、おぉ……」


 数瞬後、そこに並んでいたのは見慣れた日本語だった。










「万力の指輪+5、鋼の剣、レザーアーマー、ライフポーションⅠ……なんだこれ」


 謎の現象により読めるようになったタブレットを改めて調べていた俺は、そこに並ぶファンタジーにも程がある単語に唖然とした。

 まぁ、こんなおかしなタブレットが目の前に突如出現していることが一番ファンタジーなんだが。

 とりあえず最初から表示されていた『購入』タブから見ているが、明らかにまともな内容じゃない。

 ちなみに、『購入』タブの他には『売却』と『取引履歴』タブがあり、タブバーの上部にあるタイトルバーに相当する部分には『マーケットボード』の表示がある。どうやらこれがこのタブレットの名称のようだ。


「マーケットって……いったいどこのマーケットだよ。まさか異世界とか言うんじゃないだろうな」


 冗談のつもりで口に出した言葉が、一番あり得そうなのが怖い。

 タブバーの下部は左右二つのフレームに分かれており、右側の大きい方のフレームには商品名と金額がずらりと並んでいる。左のフレームには検索ボックスらしきものと、その下には570,398,782円という謎の金額が表示されている。その更に下にある入金と出金のボタン……。いや、まさかな、うん。

 嫌な予感を感じながら、恐る恐る『売却』タブをタップしてみる。こちらは自分が出品中の商品を確認できるページらしく、出品欄には何も表示されていなかった。よし。いや、何もよくない。

 更なる嫌な予感を募らせつつ、若干震える指で『取引履歴』のタブに指を移動させる。



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白砂糖1kg(品質:S) 5,702,905円

白砂糖1kg(品質:S) 5,702,925円

白砂糖1kg(品質:S) 5,702,954円

 ・

 ・

 ・

 ・

段ボール製の箱(品質:B) 4,962円

 ・

 ・

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「ひぇ」

 

 ある意味予想通りの結果に、喉の奥から変な声が出た。

 購入履歴の方は当然ながら空欄だ。問題はその下にある売却履歴の方である。


「これ、さっき消えた砂糖のことだよな……」


 ずらりと並ぶ白砂糖1kg(品質:S)の表記は、数えてはいないが丁度100個ほどありそうだ。

 それが全て500万円オーバーで売れている……ように見える。あと、完全におまけ扱いだが段ボール箱まで結構な値段で売れている。

 俺は今度こそ明確に震える指で、左フレームに凛然と存在する出金ボタンに触ってみた。


「……」


 何も起こらない。

 そもそも、このタブレットには出金や入金ボタンはあっても、金額を入力するようなスペースがないのだ。よく考えてみれば、上部の検索ボックスのようなものも、ボックスがあるだけで入力するためのキーボードもない。

 俺はこのタブレットが出現してから起こった事象を順番に思い返してみる。そして、再び出金ボタンを指で押さえると、口を開いた。


「出金、10万円」


 その瞬間、タブレットを触っているのと反対の左手に、カサりとした乾いた感触が現れる。

 見下ろしてみれば、俺の左手にはいつの間にか数枚の諭吉が乗っていた。

 きっと10枚あるだろうそれをぎゅっと握りしめる。くしゃりと皺の寄る音、感触。幻覚でも見間違いでもない。

 それを確認した瞬間、俺は車を飛び出して放置していた台車を手に取ると、バイト先であるホームセンターに猛然と駆け出した。

 この店にはまだ、400袋の砂糖の在庫があるのだ。


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