7、あなたはもう子供ではないのです
北中通り一本目のやや東寄り。
林檎の焼き菓子が評判の小さな店がある。その隣に、店主の住む小さな二階建ての家があった。
【完売】の札が掛かった店の前を通り過ぎ、隣にある扉を叩く。
「はい。どちらさま?」
「遅くにごめん。久しぶり、マリー」
扉を開けたのは、ふっくらとした体型の中年女性だった。仮面をまじまじと見つめた後、大きく目を見開いて、
「坊ちゃん!? まあ、ご立派になって!」
「そうでもないよ」
「そうでもありますよ。私がお屋敷に居た時は、まだ坊ちゃんは声変わりもまだで────あら? その子は··········?」
懐かしそうに話し始めたところで、マリーは黒猫のことに気づいたらしい。仮面は苦笑した。
「ちょっと仕事でドジっちゃってさ。助けて欲しいんだ」
母にはアルバートが必要だった。
最愛の長男を失った母は、それまで放ったらかしにしていた次男を長男だと思い込むことで、精神の安定させた。
大人達はそれで良しとした。美しく可憐な母がこれ以上傷つくことがないよう、細心の注意を払った。
アーサーという名は、禁句になった。
どこで母が聞き耳を立てているのかがわからない。彼のことをアーサーと呼ぶと、母は不思議そうな顔をしてこう言うのだ。
「アーサー? この子はアルバートよ」
父は母のために次男のことをアルバートと呼んだ。使用人達にもそれを徹底させ、彼をアーサーと呼んだ者には厳しい罰を与えた。
「あなたはもう子供ではないのですよ、坊ちゃん」
母の世話を任されていたメイド長は、冷たい声でそう言った。
「もう十三歳、充分に分別がつく年齢です。ならば、お父様やお母様がどれだけ大変な思いをなさっているのか、ご自分がどれだけ愛されているのか、わかるでしょう」
(愛しているのは、アルバートだけだろ)
喉元まで込み上げてきた言葉を飲み下す。
大人達はどこまでも自分勝手だった。
彼のことを完全に無視しておきながら、涼しい顔で善人の振りをする。
────まずは奥様のことを労わらなければ。子供を救うためには、その前に親を救わなければなりません。
────アレも大人になれば、親の気持ちを理解するはず。
────そうやって心を砕かれるのは、坊ちゃんを愛する証拠。大丈夫です。坊ちゃんだってわかっていますよ。
「··········るさい」
いつもは聞き流していた。なのに、その時は何故かできなかった。
「うるさいうるさいうるさいうるさいッ!」
喉から言葉が迸る。止められない。駄目だと分かっているのに、次から次へと溢れ出す。
「嘘ばっかり言いやがって。俺のことなんかどうでも良いくせに!」
ほとんど悲鳴だった。喉が裂けても構わないとばかりに、彼は叫び続けた。
「俺はアーサーだ、アルバートじゃない、アーサーだ!」
大人達が、大きく目を見開いた。
大人達は目配せを交わし、そして───その顔が憎悪に歪むのを、確かに見た。
··········嫌な夢を見た。
子供の頃の夢だ。無力で、何もできなかった頃の。
(寝てた··········?)
身を起こす。肩から毛布がずり落ちた。
いつの間にか、机の上に上半身を投げ出すようにして眠っていたらしい。変な姿勢で居たためか、身体の節々に鈍い痛みがあった。
床に落ちた毛布を拾い上げる。右手に、白い包帯が巻かれていた。
「夜遅くにすみません、先生」
「大丈夫ですよ。何かあったらすぐに呼んでください」
足音がする。二階から、白衣を着た高齢の医者とエプロン姿のマリーが降りてくるところだった。
「湿布は一日一回替えて頂ければ大丈夫です。鎮痛剤は処方しましたが、それでも眠れないようなら睡眠薬を使ってください」
いくつかマリーに指示を出した後、医者は帰って行った。
見送りから戻ってきたマリーと目が合う。
「お目覚めになったんですね、坊ちゃん」
「ごめん、マリー。寝るつもりはなかったんだけど」
「良いんですよ」
マリーは優しく微笑んだ。
「お二人とも怪我をしていましたから、いつもお世話になっているお医者様をお呼びしました。もう引退間際のお爺ちゃん先生ですけど、腕は確かですよ」
黒猫は二階で寝かされている。
濡れた身体を拭いたり、寝巻きに着替えさせるのは、マリーがやってくれた。
「助かったよ、マリー。じゃあ、俺、そろそろ行かないと」
「駄目ですよ、坊ちゃん」
笑みを引っ込めたマリーが、腰に手を当てて睨みつけてくる。
「目が覚めたら知らない部屋、知らない人だけだなんてあんまりです。せめて一度目を覚ますまでは、傍に居てあげてください」
それからマリーはふっと表情を緩めた。
一度怖い顔をして見せてから優しい顔になる。
マリーの必殺技だ。昔から、これには勝てなかった。
「今日はここに泊まってください。坊ちゃんだってお疲れでしょう」
「うん。··········ありがとう、マリー」
仮面は、子供のようにこくりと頷いた。
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