8、仮面、決断する
次の日の朝。
二階の黒猫の様子を見に行くと、彼女は既に上半身を起こしていた。
寝台に腰掛け、壁にもたれるように右肩を預けて、ぼんやりとしている。
身につけているのは、白い寝間着だ。いつもはきっちりとまとめている長い髪は解かれて、背中に流していた。左肩の鳥の刺青が、うっすらと透けている。
「よう、起きた?」
「··········おはようございます。あの、ここは··········」
「俺の知り合いの家。助けてもらったんだ」
寝台の脇に置かれた小さな棚を机代わりにして、仮面はマリーが作ってくれた朝食の盆を置いた。
白いパンと、野菜スープ、水差しと小さなグラス。その隣に、白い錠剤────医者に処方された鎮痛剤だ。
「何か食えそうか? 無理ならスープだけでも。鎮痛剤出してもらったからさ」
「ありがとうございます。私を診て下さるお医者様なんて居たんですね」
「最初のアレは無しだ。ヤブ医者だよ」
近くにあった椅子を引き寄せて、腰掛ける。
黒猫はのろのろとスープに手を伸ばし、ゆっくりと口をつけた。
薬のおかげで熱は下がり、痛みも引いたはずだが、まだ食欲までは回復していないのだろう。パンには手を出さず、スープは半分ほどで止めてしまった。
彼女が鎮痛剤を飲むところまで見届けて、声を掛ける。
「どっか痛いとか、気持ち悪いとかある?」
「ねむいです」
「そっか。眠いか」
仮面はほっと息をついた。
「眠れない時のために、睡眠薬も出てるんだ。必要になったら使ってくれ。俺は一度本部に戻るけど────」
「ちょっと! 何ですかあなたたち!」
マリーの悲鳴。硝子が砕ける音と、下卑た男の笑い声。
「悪ィなあ、おばちゃん。ノックがちっと強すぎたみたいで」
「げへ、へへへへへ」
「おばちゃんには用無いんだけどさ、ここに転がり込んだ真っ黒奴隷に用があるんだ」
黒猫が寝台から下りた。
そのまま真っ直ぐ部屋の外へ行こうとするのを、仮面は寸前で押し留めた。
「駄目だ、黒猫」
「退いてください、仮面」
どちらの声も硬かった。全身の毛が逆だっているような感覚がある。
「知りませんよそんなの! 出て行きなさいッ!」
「知らねえってこたァねえだろ、おばちゃんよ。さっさと出さなきゃ大変なコトになるぜぇ?」
マリーは気丈に怒鳴り声を上げているが、男達はどこ吹く風だ。
「マリーさんを巻き込みたくありません。とにかくあなたは誰かに《擬態》してください。私が行って、あなたはもう本部に戻ったと言えば、それで」
「────もし、囮が必要になったら」
黒猫の鳩尾に、拳を叩き込む。
細い身体が、小さく跳ねた。膝から崩れ落ちた黒猫を抱え上げ、
『その時は、私が囮になると言ったでしょう』
仮面は黒猫に《擬態》した。
動けなくなった黒猫を寝台に寝かせて、部屋を出る。
階段を守るように立つマリーの姿と、下卑た笑みを浮かべるラウドとコリン、それから、乱暴に蹴破られた扉と割れた窓が目に入った。
『ずいぶん早いお迎えですね』
仮面はあえてゆっくりと階段を降りた。
黒猫は病み上がりだ。熱は下がったとはいえ、傷はまだ癒えていない。いつも通りには動けない。
「探したぜぇ、おジョーちゃん。あのデカイのはどうしたァ?」
『仮面ならもう本部に戻りましたよ』
仮面は小さく笑みを浮かべた。きっと黒猫本人が出て行ったとしても、同じことをしただろう。
『私なんかに構っていないで、早く逃げる準備をした方が良いですよ。あの男の巻き添えにはなりたくないでしょう?』
「逃げる? 俺らが?」
「ナイナイ、ナァイ」
「それよりおジョーちゃんは自分の心配しないとなァ。旦那が首を長くして待ってるぜ」
ラウドは肩を竦め、コリンは大袈裟に首を横に振った。
マリーは凍りついたように立ち尽くしていた。その脇をそっとすり抜けると、鋭い声が追いかけてくる。
「駄目、駄目よ! 行っては駄目!」
『ありがとう、マリー』
マリーが大きく目を見開いた。
気づいてくれた。それで十分だった。
「悪い。あいつのこと、よろしく」
マリーにだけ聞こえるように、仮面は口の中で呟いた。
鳩尾に衝撃が走った時、忘れていた痛みを思い出した。
目の前が暗くなる。息ができない。悲鳴すら上げられずに崩れ落ちたところを、殴った当人に抱えられて、寝台の上に戻されてしまった。
(あんの大馬鹿野郎!)
思いつく限りの罵倒を胸中で並べ立て、黒猫は何とか気絶を堪えていた。
(わざわざ痣のあるとこ殴りやがって。後で覚えてろ。一発、いや、十発殴る··········!)
寝台から転がり落ちる。立てない。扉の向こうでは、黒猫に《擬態》した仮面が連れ去られようとしている。
今から部屋の外に飛び出しても、間に合いそうになかった。それ以前に、階段を降りる気力がない。
(窓··········飛び降りれば、外に出たところに)
這うようにして窓の方に向かい、窓枠に縋って立ち上がる。
カーテンを開き、窓を開けると、怪しい男二人と仮面の姿が目に入った。
(今なら)
「駄目!」
窓枠に足を掛け、乗り越えようとしたところに、悲鳴のような声が掛けられる。
背後から抱え込まれ、引き倒された。
倒れた時の衝撃で息が詰まった。目の前が暗くなる────
次に目覚めた時、寝台の脇でマリーが頭を抱えていた。
自分に言い聞かせるように、呪文のように何回も大丈夫と繰り返している。
「あの、すみません。服を貸して頂けますか」
「え?」
「私のは破られてしまったので。服を貸してください。仮面を取り戻しに行きます」
フラハティが何をするのか。黒猫は知っている。
一刻も早く、仮面を取り戻さなければ。
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