5、仮面、夜の街を彷徨う
フラハティの屋敷から出た時、既に日が暮れていた。
すぐに本部に戻るつもりだった。本部には治癒能力者がいる。黒猫の怪我を、彼らに治してもらうつもりでいた。
国家治安維持異能部隊の本部は、王城の隣、大通り一本目にある。フラハティの屋敷は北大通り三本目だ。
本部まで行くためには、まずは北大通り二本目まで戻らなければならない。
自力で歩くことすらままならない黒猫を抱え、北大通り二本目に続く道を目指す。
大通りは広い。四頭立ての馬車を四台横に並べてもまだ余裕がある。
屋敷と屋敷の間隔も広く、大きな門の前にはそれを守る厳しい顔をした男が立っていた。
フラハティの屋敷に向かう時は、それほど距離があるとは思わなかった。今は、それが酷く遠い────。
「─────っ」
ようやく、北大通り二本目に続く道が見えた。そこで仮面は、前に進もうとする足を強引に押し止めた。
北大通り三本目から、北大通り二本目に繋がる道。それを塞ぐように立つ、大柄な肥満漢。
(コリン··········!)
まだ気付かれてはいない。そのはずだ。今ならまだ、逃げ切れる。
「仮面?」
「道を塞がれた。戻れない」
腕の中の黒猫に短く囁いて、仮面は元来た道を戻り始めた。
心臓が早鐘のように打っている。荒くなった呼吸を、強引に押さえつけた。
「大丈夫。大丈夫だ」
自分に言い聞かせるように、仮面は何度もそう繰り返した。
意識を失った人間の身体は重い。だから黒猫は、せめて気絶だけはしないようにと努力しているようだった。
震えはまだ止まっていない。なのに、額には汗が滲んでいる。
(熱が出てきたな)
「寝てろ。起きてるのきついだろ」
仮面にそう言われてもしばらくの間は意地を張っていたが、北中通り一本目に辿り着いた時には、黒猫はぐったりと仮面に身を預けていた。
北中通り一本目には、庶民のための商店や宿屋が並んでいる。
人通りは少ない。仕事帰りらしい男が口笛を吹きながらのんびりと歩いていた。黒猫を抱えた仮面の方を見て、大きく目を見開いた後、そそくさと足早に去って行く。
(騎士団にでも通報してくれたら助かるんだけどな)
ライン王国の秩序を守る組織は二つある。仮面が所属する国家治安維持異能部隊と、王国騎士団だ。
先程の男が騎士団の詰所に駆け込んで、ずぶ濡れの娘を抱えた怪しい男がいると訴えてくれれば、保護してもらえるのではないか。
(そんな親切な奴いないか)
騎士団の詰所があるのは、北中通り一本目の西の端だ。今いる場所からは大分距離がある。
人は面倒事を嫌うものだ。わざわざ遠くの詰所まで足を伸ばして、見知らぬ娘を助けようとはしないだろう。
(どうする。騎士団の詰所に駆け込むか?)
風が酷く冷たかった。右手の傷がじくじくと痛んだ。
早く、手当をしなければ。せめて横になれる場所に。どこでも良いから宿屋に飛び込むか? それより騎士団の詰所に行った方が確実か。とにかく、黒猫の治療をしないと────
不意に、軒下にぶら下がった看板の文字が目に入る────【イライザ総合診療所~あなたの病気のお悩み、解決します~】
(────医者!)
診療受付時間は既に過ぎている。だが、まだ窓から光が零れていた。
「夜遅くにすみません! 治療をお願いします!」
吸い寄せられるようにそちらに向かい、扉を叩く。家の中には確かに人がいるはずなのに、何の反応もない。
それでも諦めずに扉を叩き続けていると、やがて根負けしたようにがちゃりと鍵の開く音がした。
「あのぉ、もう今日の診察は終わりなんですけど」
細く開いた扉の隙間から、青年が顔を出した。これみよがしにため息をつき、うんざりとした口調で言う。
「迷惑なんで止めてもらえますか。先生も怒ってるんで」
「すみません。どうしても診て欲しい人がいるんです。怪我をしてて、あと熱も」
青年は黒猫をちらりと一瞥して、吐き捨てるように呟いた。
「··········そいつ、奴隷じゃん」
「なっ────」
「うち、人間のための診療所なんだよね。
「··········奴隷制度は、二年前に廃止されてる」
「だから何?」
青年は肩を竦めて見せた。
「あんたさあ、ある日突然偉い人が『今日から犬にも人間と同じ権利を与えまーす』とか言ったらそうですねって納得して、人間用のご飯とかあげちゃうわけ? もうちょっと論理的に考えてみろよ」
絶句した仮面を見て、青年はニタリと笑う。
「人間用の診療所に、
扉が閉まった。
仮面は、青年を睨みつけることしかできなかった。
「先生、追い払っときましたけどー」
「なに手間取ってるんだい、役立たず」
厄介な客を追い払ってやったと言うのに、不機嫌な声が返ってきた。
イライザはいつもこうだ。自称、『男にも劣らぬ手練の女医』として肩肘を張っているが、実際には患者を選り好みする気難し屋の老婆である。
(もっと稼げるとこあるならすぐ辞めてやる)
胸中で好き放題罵りながら、青年はへらりと笑みを浮かべた。
「酷いなあ。俺、頑張ったのに」
「何が頑張っただい。大したことがない奴ほど自分のことを過大評価するんだよ」
(お前が言うのかよ)
青年の笑顔は崩れない。いつものことだ。聞き流すだけ。
「あんたみたいな無能、あたしが雇ってやらなきゃとっくの昔に野垂れ死んでるんだからね」
「感謝してますよ、先生」
「そうかい。じゃあ、さっさとさっきの二人を追いかけて、どこ行ったのか突き止めてきな」
「はい?」
青年は可愛らしく首を傾げた。今日の仕事はもう終わったはずだ。あとは帰るだけだった。
「どうせフラハティの坊やのおいただろ。あの二人がどこに行ったのかわかったら、あのお坊ちゃんに教えてやんな」
デレク・フラハティ。イライザのお気に入りだ。何度か使いを頼まれたことがあるので、どこに屋敷があるのかは知っている。
だが、もう今日の仕事は終わりのはずだ。
「え、でも先生、もう今日はおしまい··········」
「でもも何も無いよ、給料泥棒!」
うっかり抵抗を試みた青年を、イライザは怒鳴りつけた。
「高い金払ってやってるんだ! ごちゃごちゃ言わずに言う通りにおし!」
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