黒いバラの花言葉(ネーロ視点)

 隠れ家で過ごして3日。

 自由に動けない水面下、いや泥濘下にあって、ネーロ・オルニティアはいくつかの情報を掴んでいた。


 すっかりこもりきりになった自室(?)で、ネーロは嘆息する。

 目の前の机にはレモンが淹れて持ってきてくれた紅茶。

 補給も厳しいこの環境で、あの専属のメイドは本当に如才なく立ち回って、ネーロの精神的負担を軽くしてくれていた。


 自らは表立って行動できずとも、公爵家のネットワークとはそのレモンを通じて情報を共有している。

 ために、推測混じりではあるが、現在の自分の置かれた状況、あるいはおぼろげながら全体図を見渡すこともできていた。


 あくまで山を登りながら地図を見るような、主観と客観の両極端な状況把握ではあったが。

 まだしも視点が得られるだけ上等だろう。

 これが軍警察の檻の中なら、山で迷うどころか奈落の谷底で死を待つだけだった。


 その点に関しては間違いなく先生ルナのおかげだ。

 結果的にはロッソとアズリオの助けが間に合った形だが、その時間を稼いだのはルナ、早まっていたネーロを思いとどまらせたのも彼女だし、なんの見返りもなく捨て身になってまで窮地を救ってくれたのだから。


 ルナには会えない日が続いているが、護衛としてビアンカの元へ送ったのは、ルナ自身の安全を考慮してのことでもあった――いざという時、ビアンカを連れて逃げてくれればいい。

 そう言い含めたつもりだが、その時のルナの顔といったら。


(あれはきっと、最後までわたくしのことは見捨ててくれませんわね)


 おひとよしな先生のことだ。

 どこかロッソ王子に似た目をしたあの人は、きっと同じように、最後まで誰ひとり諦めない。


 そんな人だと分かってしまったから。

 だから自分も、アズリオ王子も、ルナにビアンカの護衛という大役を任せたのだ。

 言葉にしないまでも、同じ合理主義をしとする者同士、同じ兄と婚約者ひとに惹かれた同士、なんとはなしにそれが分かる。伝わる。


 あの蛮勇とも呼べるほどの勇猛さ、豪胆さは本当にいったいどこから来たのやら。

 そんな御方の謎に比べれば、ネーロが置かれたこの程度の苦境、まだまだ理解に易いものだ。


 まず分かった中で重要なのは、この隠れ家が既に敵に発見・・されていることだった。

 ネーロ自身はこの家から一歩も外に出ていないが(窮屈だが、濡らした布で身体を拭く程度の自由があるだけ、幼い頃に受けた潜伏訓練より遥かにマシだ)見張りの人員が出入りするだけでも所在の痕跡は知れるだろう。


 ここを引き払って逃げ出す準備はあるし、もともとそれを想定した、乗り換えの利く施設として用意された隠れ家でもある。

 つまりは見つかることは織り込み済みなのだが……敵もそれを知ってか知らずか、まだここに踏み込んできてはいない。

 刺客が現れる気配もなかった。


 牽制すらしてこない。

 余裕があるのか、逆に余力がないのか、あるいは他の企みがあるのか。


 ネーロの読みは、無論3つ目だった――

 敵は、王室の落胤ゴルドー・グランシーザーは、あえて手を出さずにいる。

 そうして戦力を整え、こちらを追い詰め、包囲して、しかるのちに一気呵成の大攻勢でロッソたちの息の根を止めようとしているのだ。


 3択の中では最も厄介な動きであり、ゆえに当然、ネーロは最悪を想定して対策を講じるべきなのだが。

 自由の利かない今の身ではそれは叶わず、アズリオにそれを一任してしまっている。

 王子たちに仕える立場でありながら、その手をわずらわせるのでは本末転倒もいいところだったものの――


「気にすることないさ。同じ馬鹿ロッソに惹かれた同士、君とは共感するところが大いにあるしね」


 対処のために別行動を選んだ時、アズリオはそう笑っていた。

 ネーロを心配させまいとする彼なりの気遣いだったろう。


 痛み入りながら、ネーロは思索の内に冷めてしまった紅茶のカップを持ち上げようとして――


「ネーロ。いるか?」


 ここん、と扉を鳴らしたノックの音と声に、思わずそれを取り落としかけた。

 突然の訪問者の声は、ネーロが最もよく知る人のものだったのだ。


「ろ、ロッソ様!? どうしてっ?」

「取り込み中だったか? それなら出直すが――」

「それには及びませんっ。しょっ、少々お待ちを!」


 訊きたかったのは、なぜレモンが知らせもせずにロッソを部屋に通したのか、のほうなのだが。

 寝耳に水の訪問でも、とにかくそんなこと考えている場合ではなかった。


 慌てて仮住まいの自室を見回す――

 といっても、粗末な隠れ家で今さら取り繕えるほど立派なものではないが。


 それでも最低限の体裁を最速で整えて、ネーロは口を開いた。


「どうぞ。狭い部屋で恐縮ですが」


 促すと、キィと音を立てて(その音すら本来は恥ずべきことだが)ロッソが入室してくる。

 美丈夫は椅子に腰掛けるこちらの姿を見て、


「元気そう……では、ないかな。無理もないよな。すまない、お前ひとりを押し込める形になってしまって」

「いいえ、わたくしが望んだことですもの。レモンもいますし。それより、今日はいったいどうして?」

「陣中見舞いだ。ああ、尾行の心配はない。隠形おんぎょうの歩法と心得ぐらいは身につけてるさ」

「そのような心配は」


 していない、と言いかけて。

 それよりもわずかに柳眉を寄せて、ネーロは告げる。


「……いえ。わたくしはどうとでもなりますが、ロッソ様にとってこの場所との繋がりは危険ですわ。無用に足を運ばれては困ります」

「だから心配ないってば。お前は誰かを案じる時はきつい言い方ばかりする」


 苦笑されてしまって、ますますネーロはもやもやした気持ちになったが。

 ロッソは変わらない口調のまま続けた。


「小さい頃から変わらないな、お前は。アズリオみたいに、俺の前でくらい素直になってくれてもいいんだぞ? いやまあ、あいつはあいつで口調が毒まみれで、たまに本気で勘弁してくれって思うんだが」

「……世間話をしに来たんですの?」

「そうだぞ? 言っただろ、陣中見舞いだって」


 こともなげにそう言われて、ネーロは呆れるやら悩ましいやらだ。

 ロッソには緊張感とか、そういうものがないのだろうか?


 それはなんだか、あの庶民の馬鹿娘ビアンカを思わせる能天気さで――

 だから、彼女のそれがロッソに移ってしまったみたいに思えて、少し胸がチクリと痛んだ。


 けれど、ロッソは。


「また眉間にシワが寄ってるぞ。お前な、そんな顔ばっかり見せられてたら、俺だってあんまりいい気しないぞ。婚約者……っていうのは、いまだに納得行ってないけど、そうじゃなくても幼なじみだろ。それとも、そんなに俺って頼りないか?」

「え……」

「確かに、俺はアズリオほど頭は良くないし、ルナにだってボロ負けしたし、ビアンカほど根性あるわけじゃないけど。でも、それでもお前が無理してるのくらい分かってるよ。なんとかしてやりたいって思うだろ、そんなの」

「……そのようなことは」


 それは、思ってもみない言葉だった。


 ネーロがロッソを邪険にしている?

 そう言われたようなものだけど、そんなつもりは毛頭なかった。

 そんな罰当たりで畏れ多い……いや、そもそも、心の片隅でだって思ってもないことだ。


 だって、そんなの、ロッソにそんな風に心配してもらえるなんて、ネーロにとっては……


(嬉しくて、たまらないことのはずなのに……わたくしは)


 苦言を呈するばかりで、彼の思いを汲もうともせず。

 形だけの、貴族のあるべき態度を取り繕って、素直に気持ちを返すとか、感謝を言葉にしようなんて考えもしなかった。

 今も、今までも、あるいは、もしかしてこのままこれから先も。


 ――あなたは人の感情を秤に乗せていない。


 先生ルナの言葉を思い出す。

 胸に突き刺さるような、含蓄深い言葉だった。

 あれはまるで、ルナ自身の過去を暗に含めて口にしていたような、そんな気がする。


 ――そのままでいたら、ロッソの心も離れていくわよ?


 そうも言われた。

 目の前で、困ったように頬をかくロッソの顔を見ていると、なおさらそれを思い知らされる心地だ。

 だって、たとえば、逆の立場ならネーロだって、こんな可愛げのない態度の女なんか、無視したくなって当たり前だって思ったから。


 ビアンカみたいな、あの無垢で透明であけすけな少女のほうが、自分なんかよりずっと魅力的な『人間』だと、そう思う気持ちがずっとあって。

 それが、劣等感から来る単なるやっかみだったんじゃないかって、ネーロはこの時そう思ったのだ。


 でも。だけど。

 今はそんなの、口にしている時じゃなくて。

 そんな余裕はないはずで。

 公爵家の令嬢として、エージェント“シュラーガー”として、相応しい振る舞いこそ求められる逼迫した状況で。


 でも、だけど、じゃあ、ロッソは?

 彼はそんな打算なんかなげうって、それでもネーロを『心配』して、わざわざ郊外の隠れ家までやってきてくれた。

 それを疎ましく思うなんて、ネーロだってそこまで厚顔無恥じゃない。


 本当は嬉しい。

 泣きたくなるくらい、その心遣いひとつがただ嬉しい。

 たとえロッソの心がビアンカに向いていても、だけどそれでも、ネーロのことをないがしろにするような人じゃないって、自分は知っていたはずなのに。


「こんな時くらいしか、俺はお前の助けになってやれない。だから、あてにならなくても頼ってほしいって思うんだ。こんな時だからこそ」

「…………」


 そう言われて、思わずうつむいてしまう。

 ロッソの顔が見られなかった。


 申し訳なさももちろんある。

 けれどそれ以上に、どうしてだか、ひどく熱くなってしまった顔を見せられなくて。


 不敬だと分かっていても、語気を尖らせてしまうのを止められなかった。


「……ズルい、ですわよ」

「ネーロ?」

「ビアンカのことが好きなくせに。あなたは、そうやって、わたくしを諦めさせてくれない」


 恨み言ばっかりだ。

 口を開けば悪態ばかり、お説教ばかりで、なにひとつ素直じゃない。

 こんな性根の曲がった性格の悪い悪役令嬢おんななんか、放っておいてくれればいいのに。


 自分は王家の影だから。

 ただ彼を支え続ける、影からずっと、わずかでも助けになれればいい。

 後ろ暗い泥は自分が被るから、どうかあなたは綺麗でいてほしいと、そう願っていたはずなのに。


 ロッソは、しばし迷うような間を置いてから、ネーロの頭をぽんぽんと叩いた。


「それを言われると弱いけどな。でも、ズルくてもなんでも、俺はお前だって諦めたくないんだ。だから、放っておくなんてできない」

「……じゃあ、第二夫人にでもしてくださるの?」

「そんな卑屈なこと言うなよ。ていうか、そんな話じゃない。ビアンカは大事に思ってるけど、ネーロだって大切な幼なじみだ。同じ秤に乗せられるかよ。一番も二番もないんだ」


 なにが言いたいんだろう。

 ロッソは、なにを。


 あるいは彼自身にも分かっていなかったのかもしれない、けれど。


「ネーロのことは普通に好きだし、ちゃんと大事だってだけだ。俺が言いたいのは。関係に名前をつけて、それで終わりになるような単純な仲じゃないだろ」

「でも。わたくしは」

「分かってるよ。こんな優柔不断男の婚約者なんて、振り回されて面倒かけられて、大変なばっかりでいいことない。だけど、おかげで俺はすごく助かってるっていうか……とにかく」


 こほん、とロッソは咳払いした。

 わざとらしく話を変えようとして――しかし、諦めて白状するように言った。


「……どうもうまくないな。なんて言ったらお前の励みになれるのか、全然分からない。弟に呆れられるわけだよ」

「アズリオ様は、なんと?」

「黙って抱き締めてやれ、ってさ。なに言ってんだかな」

「え?」

「いや、だってお前、昔からそういうの苦手っていうか、嫌がってただろ? 男は臭いとか汚いとか不潔とか釣り合わないとか、癇癪起こすくらい。なのにアズリオのやつはなに言ってんだかな、って――」

「――だ、駄目ですか? ロッソ様」


 ぽつり、と告げた声が、自然とロッソの言葉を遮った。

 不思議とそういう間になって、会話に隙間が生まれる。


 ちらっと視線を上げると、ロッソはきょとんと目をしばたたかせていた。

 もっとも、心境としてはネーロも似たようなものだったけれど。

 言わんとしたことが、自分でも信じられなくて。


 ロッソが訊ねた。


「駄目って……なにが?」

「ですから、その。ええと」


 言葉に迷って、さまよってから、逃げ場がないことに気づくまで3秒ほど。

 ロッソの疑問の目から逃れられず、観念して続けた。


「……抱き締めては、いただけませんの?」


 その言葉に、頬が染まる。

 火がついたみたいに顔が熱くて、ひどくひどくはしたなく思えて、グルグルと目が回ってしまう。


 自分でもどうしてそんなことを言ったのか、分からない。

 どうして言えてしまったのか。

 そんな本当なら押して隠すべき、自分の心の恥ずべき甘さ、“弱さ”なんて。

 けれど。


 ――自分の弱さを見せてもいいのよ。


 心の芯のところに刺さっていたその言葉。

 敬愛すべきあの少女、ルナの語った恋のいろは。


 別に駆け引きがしたいんじゃない。

 でも、だけど、それは、その言葉はきっと、本当は――


「わたくしは、あなたに甘えてもいいんだ、って……そんな風に思い上がっても。いいのでしょうか?」


 声は消え入りそうなくらい小さく、すぼんでいく。

 小鳥が鳴くような、それは、公爵令嬢が口にしていいようなものじゃない、人見知りの子供みたいなおどおどした声音だった。


 けれど、ロッソはこんな時こそ迷わなかった。

 そんな甘っちょろい人ではないのだ、昔から、彼は。


 手を取られ、優しくも遠慮なく立ち上がらされると、ネーロはふわりとその胸に抱きとめられていた。


「あ……」

「嫌か? だったら、すぐに拒んでくれ」

「いえ……いいえ」

「じゃあ、ほら、胸ならいくらでも貸すよ。言っただろう、頼ってくれたら嬉しいって。ネーロには昔から助けられてばかりだ。こんな時ぐらいだろ、俺が役に立つのなんて」

「そんな――そのような、ことっ」


 ぐす、と鼻が鳴る。

 目が熱くて、身体が震えて、喉の奥から久しく忘れていた感情が膨れ上がった。

 涙が、気持ちがあふれて、もう止められない――


「ごめっ、なさ――あの時――ロッソ、さま、が、来てくれてっ」

「うん。うん」

「助けに来て、くださって――すごく、すごく嬉しくて、ほっとして、だから、だから」

「分かってる。泣くくらい怖かったなら、無理も無茶もしないでくれ。いつだって助けに来るから。ネーロが呼んでくれるなら、俺もアズリオも一も二もなく駆けつける」

「う、うぅぅううう……!」


 ぐりぐりと、ロッソの服に顔をこすりつける。

 次々にこぼれ出す涙を隠して、止めてしまいたくて。

 そのはずだ。それだけだ。


 断じてそんな、ロッソの胸の中で甘えたくて、駄々っ子みたいに泣きじゃくって、今だけは彼を独占したいなんて甘ったれて腑抜けた考え――

 してない。していない。考えてなんかない、そんなことは。


 だけど、ぽんぽんと、背中を叩いて撫でてくれるロッソの手が、とてもとても優しくて、温かったから。


「お前は今、泣いていい。泣いていいんだ。ネーロ」


 ――王家の暗部として働いてきた。

 だから自分の手は決して綺麗じゃない。

 間接的であれ人を殺めたことだってある、血で汚れて、ロッソに抱かれるに相応しい乙女の身体なんかじゃないのだ。


 だけど、だから、なのに、それでも。


「ははは。お前が俺に泣きついてくるのなんて、本当に子供の頃以来だな。いつもそれくらいしおらしくしてたら、可愛げのない『黒鳥』なんてあだ名もすぐに廃れて、人気者になれると思うぞ?」

「ばか……」


 ロッソの腕に抱かれて、彼の胸の中で、ネーロは泣いた。


 今日だけだから。

 それで自分は十分だから。

 そしていつか、いつの日か。


(どうか王になって――優しいあなた)


 たとえ自分が、その傍らにあれずとも。

 きっと彼こそが、本当に真実、唯一、その座に相応しい人だと信じているから。


 そう願いながら、ネーロは熱い涙を嗚咽とともにこぼし続けた。




 ――部屋の外、ドアの傍らで聞き耳を立てていたメイドは、陰でこっそりグッと拳を握った。

 こっそりロッソを部屋に案内したメイド。


 レモンは満足してひとつうなずいて、足音もなく部屋の前から去っていった。

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