『月影』って、どういうこと!?

「――――!」


 気づいた時には、ルナは床を蹴って飛び出していた。

 どこへ向かう? なにをする?

 その答えはほんの一瞬後にはもう分かっていた。

 いいや、違う。そうじゃない――


 どうすべきでなにがしたいかなんて、本当は最初から分かってたし決まっていた。


 部屋の一角の豪奢な窓。

 それを体当たりでぶち破って、外へ飛び出す。

 4階の高さの虚空へと。


 手には黒のローブ。影のように黒いが、他に特徴もない、顔を隠せるくらいの役にしか立たない布の塊。

 それを空中で身に纏う。

 ダイヤル機関にいた頃は日常的に着ていた標準装備だ、目をつぶっていても頭から羽織るくらい当たり前にできる。


 そうして正体を隠し、バタバタと黒いローブの裾をはためかせながら、ルナは自由落下の凄まじい加速に身を任せた。

 蹴破ったガラス片と窓の木枠、それとともに泳ぐように宙を滑る。

 文字通りの圧倒的な開放感を胸に、ルナは声を放った。


 呪文の声を。


「――影潜りシャドウ・ダイブっ!」


 寮の建材と、そして集まった群衆の生み出す、重なった“影”の中に飛び込んだ。

 影の沼が落下の勢いを殺し、深く深く沈み込む。

 やったことはないが、水泳の飛び込み競技に似た要領で影の中に“着水”したのだ。


 飛来する破片物がバラバラと、レンガ敷きの地面に跳ね返って踊る、その音を“影”越しに聞き取りながら。

 息を止めたまま、ルナは影の中を泳ぎ出した。

 天地反転した眼下の地上には、元のどよめきから突然の出来事への驚きと警戒、そして飛び降りたはずの人影がどこにもいないことへの戸惑いが広がっていて――


 その気配を感じ、見て取って、タイミングを計ってルナは表の世界へ飛び出した。

 思いきり勢いをつけて、両足のかかとで影の境界を踏み抜くように。


「――う、ごっ!?」


 まさに文字通り影からの奇襲に、狙われたその騎士はガードする暇もなかった。

 顎を下から蹴り抜かれ、ガキンと上下の歯を打ち鳴らし、そのまま騎士の男はひっくり返って倒れ込んだ。


 倒立した姿勢からぎゅるりと身を回し、二本の足で地に立ち上がるルナ。

 鼓動が速い。

 4階の高さからのノーロープバンジーは肝が冷えたが、それよりもなお、心臓が炎のように熱く滾っている。


 身体が、心が燃え上がっていた。

 心・技・体――そのすべてが今は、同じ方向を向いている。

 やるべきことが分かっている。

 自分がなにをしたいのか。


 なにになりたいのか。


「き、貴様……! いったい何者だ!?」


 誰何すいかの声に、しかし答える声はない。

 そんな暇も惜しく、手近にいたまた別の騎士を、顎先を拳で打ち抜いて昏倒させた。


 奇襲は勢いと緩急がすべてだ。

 動きを読ませてはならない。


 だが、その場にいる全員の呼吸の継ぎ目、隙を捉えて動くことができるなら、たとえ全周囲を囲まれていても問題ない。

 全員を敵に回して立ち回り、それでもなおすべて打ち倒して、最後にひとり立つ孤影――


 ダイヤル機関にいた頃に、それが暗殺者の理想像であると教えられた。

 無論、現実には絶対に存在しない、あくまでそれが成立する間だけは無敵でいられるという、言ってみればただの与太話だ。

 敵の影すべてを地に打ち伏せ、自らは夜空に浮かぶ月のように、届かず触れ得ず逃れられない、絶対の存在として君臨する――

 その境地を、あり得ないものの比喩として“月影”と呼び、称していた。


 騎士のひとりが叫んだ。


「こいつ――一昨日の騒ぎのやつだ! 黒ずくめのローブ、顔を隠して、見たこともない体術を使う!」

「やはりネーロ・オルニティアの手先か!」


 動かぬ証拠をこちらから突きつけたようなものだが、構うまい。

 どのみち捕まればネーロは助からない。絶対に。


 だからその前に阻止する。

 断固とした意志で、ルナは己に誓っていた。


 吠える。


「――死にたくないやつは手を引け!」


 突然の叫びに、騎士たちが顔をしかめる。

 無視して抜刀する者が大半だったが、こちらも構わず続けた。


「私は殺さない……誰ひとり殺させない! だけどお前らの雇い主はどうだ!? ネーロは濡れ衣だ。裁かれる罪なんかひとつもない。そんな女の子を捕らえて殺せと、お前たちにそう命じたのはどこのどいつだ!」

「殺し屋風情が、わけの分からんことを……」

「お前たちも使い捨てられる! ネーロの断罪に加担したら、お前たちは絶対に後悔するぞ――」


 言う間にも構わず、近くにいた騎士のひとりが剣を手に斬り掛かってくる。


 振り下ろされる切っ先。

 それをギリギリ引きつけて半歩下がってかわすと、すぐさまルナは動きを反転させた。

 剣の横腹を裏拳で弾いて逸らし、騎士の鎧の隙間、腕の関節の逆を取る。

 地に弧を描くように滑らせた右足で男の片足を払い、転倒させ、そのまま極めた腕関節ごと地に叩き伏せた。


「がっ……!?」


 短い悲鳴をあげて、その騎士の男は土を舐めた。

 重鎧は守りは堅固だが、バランスと機動性は劣悪だ。

 こうして引きずり倒してしまえばしばらくは自重で立ち上がることもできない。


 その間に後頭部に肘鉄を打ち下ろして、そいつも気絶させた。


「な――き、貴様は」


 立ち上がる。

 油断と先走りはあっただろうが、正当の騎士がこれほど容易く制圧されるとは思わなかったのだろう。

 実際にはタイミングがうまく噛み合っただけのウルトラCだが、ハッタリにはなったようだ。


 軍警察の騎士たちは警戒を強めて、じっとこちらを睨んでいる……

 じりじりとルナの左右、背後にまで回り込み、取り囲む構えを見せながら。

 その動きの中で、ルナは部隊長とおぼしき男を見極め、彼我の立ち位置を頭に刻み込んだ。


 ネーロは――騎士のひとりに腕を掴まれ、拘束されているようだ。

 なんとか振り切って逃げてくれるとありがたいのだが、期待はできない。

 そもそも捕まること自体が彼女の目的なのだから。


 ルナはそれを邪魔している。

 なんのために? それすら定かではないが、それでも決めたのだ。決断した。

 ネーロをこのまま行かせることは、絶対にさせてはいけない。


 敵は王室? 長ったらしい名前の賢者だと? 知らない分からないどうでもいい。

 ルナが知っているのは、この世界に今も生きている人たちだけだ。

 それを守ってなにが悪い。


 守りたいと思ったのだから。

 仕方ないだろう。やるしかない。


 ――付き合わせて悪いわね、『ルナ』。

 ……水臭いこと言いっこなし。でしょ?

 ――行こう。

 ……行くよ!


 声もなく、前触れもなく、ルナは自分の“影”の中に身を沈めた。

 潜る、と決めたなら、それは声などなくとも一瞬でその場に落下するように消えられる。

 騎士たちのざわめきを残して、ルナは再び影の世界へ。


 包囲するために部隊を展開していたのが裏目に出た。

 隊長の指示を待って一斉攻撃するはずが、その先手を読んでルナは魔法の行使、それに必要な意識集中を密かに準備していたのだ。

 接近戦はともかく、こうした乱戦で隙さえ作れれば影魔法も実戦活用できる。


「――な、なんだ? どこへ行った!」

「――魔法だ! あの殺し屋、魔法使いか!」

「――道理で捕まらないと――捜せ――!」


 影越しに聞く地上の声は、深い沼の底から聞くようなおぼろな響きだ。

 騎士たちの影に紛れて泳ぎ進み、次に顔を出したのは、さっき位置を覚えておいた騎士隊長の懐だ。


「……っ! く、ぐあっ!」


 おそらく、この隊長の男はルナが逃亡するものと踏んでいたのだろう。

 追撃の指示を出そうとしたところを奇襲され、喉に一撃を食らって、これまた一撃で倒れ込んだ。

 親指と人差し指の付け根で打ち据え、呼吸のための気道にショックを与えた。

 意識を取り戻すまで1分はかかるはず――


「――――っ!」


 しかし、最小の打撃を意識したせいで目算が狂った。

 倒れ込んだ騎士長がルナの足を掴んでいる。

 執念のこもった目でギロリと足元から睨まれ、ルナはゾッと背筋を凍らせた。


「邪魔は……させん……! あのお方、こそ、真の……!」

「ちぃっ!」


 いちいち振りほどくより、もう一撃蹴りを食らわせるほうが早かった。

 今度こそ力尽きて倒れる隊長の男。


「かかれっ!」


 だが、それが決定的な隙だった。


 残った騎士たち、まだ10人以上いる彼らが、既にルナを取り囲んで飛び掛かってきている。

 四方から同時に狙われ、逃げ場はない。

 影魔法で足元へ逃げる、それに意識を割く時間もない。

 一度に全員を倒せるわけがないし、仮にできても、次の第二波は絶対に防げない。


(詰んだ――)


 認め、そして腹をくくった。

 覚悟を決めて拳を握る。


「逃げなさい、ネーロ――っ!」


 ひとりでもふたりでも、この場で倒す。

 そうすればもしかしたら、奇跡が起きてネーロが心変わりして、なんとか逃げ延びてくれるかもしれない。

 そうすればもしかしたら、ネーロは助かって、代わりにビアンカも守ってくれて、なにか色々と如才なくすべて完璧に解決してくれるかも、なんて――


 都合のいいことを欲張って考えながら、ルナは全力で拳を振り抜いた。

 が、しかし。


 その拳はただ空を切るだけだった。


「え……?」


 なにが起きたのか分からない。

 ただ見回すと、ルナを取り囲んでいた4人の騎士たちは、急に身体が痺れたようにその場にばったり倒れて痙攣していた。

 拳が空振ったのはそれでらしい。


 さらに見やると。


「……土の、拳?」


 倒れてノビている騎士たちの足元からは、ちょうど同じ数の岩が突如として盛り上がって現れていた。

 これに下から打ち上げられて倒されたのだろう。

 仰向けに倒れたひとりの騎士を見ると、その鎧が真正面からべっこりへこむほどの威力と衝撃だったらしい。


「ぎゃっ!」

「うご、ぐあぁっ!?」


 そして、異変はそれだけにとどまらない。

 呆然と足を止めていた他の騎士たちが、次々と悲鳴をあげて倒れ出したのだ。

 何者かが騎士たちを攻撃している。


 これは――間違いない。魔法だ。


 しかも先ほどの土の拳だけではない。

 ある者は突風で突き飛ばされて門に叩きつけられ、また別の騎士は鎧ごと炎に巻かれ、絶叫しながら炎の渦から飛び出したところを、今度は頭上に一塊ほどの氷の飛礫をぶつけられてバタバタと倒れ込んでいった。


 火、水、土、風。

 色とりどりとでも言うような魔力の饗宴が、逆に手品めいた鮮やかさで、騎士たちの部隊を翻弄して叩きのめしていた。


 最初にルナの頭によぎったのは、援軍が来たのか? ということ。

 誰かは分からないが、オルニティア家の護衛かなにかが、一部隊を率いて主君の危機を救いに来たのかと。

 しかし、この場に誰かが現れた形跡はない――


「き、貴様……我々に歯向かって、た、ただで済むと思うな!」


 最後に残ったのは、ネーロの腕を掴んでいたあの騎士だった。

 恐怖に顔を歪ませながら、それでも必死の形相でネーロに剣を向けている。


 ――ネーロに?


「危ない!」


 叫び、ルナが飛び出すのと、騎士が剣を振り下ろすのは同時だった。

 間に合わない。

 血しぶきが飛び、ネーロが斬られて倒れ伏す光景が目の前に浮かんで――


 しかし、実際に起こったことはそれとはまったく違うものだった。

 ネーロがかざした右手の先、渦を巻くように宙に浮かんだ激しい水流の壁が、騎士の剣を受け止めていたのだ。


「……化け物め……!」


 そして最後に、レンガの地面をぶち抜いて打ち上がった土の拳に殴り飛ばされ、その騎士もがっくり倒れて意識を失った。

 ネーロが息をついて手を下ろすと、水の壁は地面に落ちて水溜まりに、土の拳は崩れて土砂の山になる。


「ネーロ……?」


 呆然としながら、それでもルナは彼女に歩み寄ると、その肩に手を触れた。

 ネーロがゆっくりこちらに振り返り、苦笑するように微笑んだ。


「……無茶をしすぎです。先生。ですが、さすがお強いんですね。本物の騎士を何人も相手取って、次々と打ち倒して」

「大したことじゃ……いえ、それよりも。怪我はない? 大丈夫なの?」

「なんとか」


 言いながら、がっくりと膝をついてしまう。

 助け起こしながら見やると、顔色は悪く息を切らせて、寒気でもするのか身体中が震えていた。

 明らかに消耗している。


 どういうことなのか分からず、ルナはうめいた。


「なにが起きたの。誰が騎士たちを倒した? 姿も見せずにこの人数を」

「ふふ。先生。それ、全部わたくしですわ」

「は?」


 一瞬、なにを言われたのか理解できず、ルナは間の抜けた声を漏らした。

 これをネーロが……?


「ひとりでやった、って? そんな。あなた、あなたの魔法属性って」


 瞬間、頭の中で『私』の知識が弾けた。


 原則として、ひとり一属性・・・であるはずの魔法。

 9割以上を占める四大はもちろん、ルナの影属性や、ビアンカの光魔法だってその例外ではない。

 ふたつ以上の魔法を有する人間はごく限られており、それに、そうだ、少なくともゲームで描かれた範囲には、そんなキャラクターは登場しなかった。


 おかしいと思うべきだった。

 『ハーモニック・ラバーズ』において、ネーロが魔法を行使するシーンはいくつかあるが。

 それは各攻略対象のルートへ分岐した後、その攻略対象・・・・同じ・・属性の魔法を、相手に合わせるように使い分けていたのだ。


 てっきり戦闘ゲームにありがちな、ライバルキャラのタイプが後出しで変わるという“演出”だとばかり思っていたが。

 なんなら頼みの綱のビジュアルファンブックにもそう書かれていたはずなのだが。


 まさかとしか思えないことを、ネーロはルナの腕の中で微笑んで告げた。


「――わたくしの魔法属性は“四大”すべて。すなわち万象を操る――それがわたくしの力、ですわ」

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