『決意』って、どういうこと!?

 軍警察の襲来、その報を聞いても、ネーロは平静なままだった。

 ただ静かにうなずく。


「……なるほど」


 ちらとルナの顔を見やって、つぶやくように言う。

 情報は確かだったと確認したのか。

 そのまましばし考え込むように、指先で唇を何度か撫でる。


 むしろ動揺はルナのほうが大きかった。

 思わず窓に駆け寄って――陰に隠れて外をうかがうと、正門の近くは騒然としていた。

 明らかに武装した軍の一団が、寮の警備隊を相手になにかをがなり立てている。

 中にはこんな街中で抜刀している者までいた。


「――なに、これ」


 あまりの光景、緊迫した事態に、足元が崩れて落ちる錯覚すら覚えた。

 軍と警備のやりとりは、もはや見るからに形だけの問答で、ほとんど勢いに押し込まれかけている。


 どう見ても突入されるのは時間の問題だった。

 もはや一刻程度の猶予もないだろう。


 片手で頭を押さえて、めまいをこらえるように言う。


「いくらなんでも……早すぎる。こんな、私の行方も掴んでいないはずの段階で軍が動くなんて、それに」


 そう。それにしたところで。


(私の知ってる……ゲームの展開とも違う。ネーロの断罪はもっと先、いくつかイベントを挟んで、まだ2週間はあるはずなのに。場所も違う。ゲームでは軍なんかじゃなく、学園の教室でロッソたちがその罪を暴いていた)


 なにもかもが違いすぎる。

 ここが『ハーモニック・ラバーズ』の世界と違うのを理解した上で、それでも辻褄が合わないのだ。


 あまりにも事態の進行が早すぎる。

 一個人を捕えるのに軍警察を動かすという、手口の強引さもおかしい。

 これではまるっきり、ネーロを利用するのでなく、彼女を含めたなにもかもを破滅させるためにすべてが仕組まれていたみたいじゃないか。


 いや、と頭を振って考え直す。


(そうだ。違う。これがゲームじゃないなら……なにかが起こったなら……もう、筋書きは変わっていて、『私』の知識は通用しない)


 その分岐点となったのが、なんなのか。

 考えればすぐに分かった。


「……ごめん、ネーロ。私のせいだ。私が引き連れてきたようなものだ」

「先生?」

「敵の思惑がなんなのか、それがなんであれ、私が組織を裏切って離反したのは予定外だったのよ。だから当てにならない殺し屋モドキに見切りをつけた。ビアンカの暗殺の成否にこだわらず、奴らは先にあなたを標的にした!」


 2日前のあの時、ルナが憲兵に捕らわれていたなら――『ゲーム』の通りに進んでいたなら。

 少なくともこんな状況にはならなかったはずだ。


 ルナが逃げ出す猶予ができた一方で、ネーロは時間を奪われ、いまだ正体も見えない相手に奇襲を受けている。

 戦う覚悟も逃げる準備もできていない状態で、いかにオルニティア公爵家といえど、これでは抵抗の余地もない。

 軍が直接動くというのはそれだけ危険な状況だった。


 見通しが甘かった。甘く見ていた。

 本当の敵はダイヤル機関じゃない、その裏で糸を引いて動く黒幕がいるのだ。

 それは分かっていたはずなのに、みすみす先手を許してしまった――


「先生のせいではありません。本来なら義理もなかったところを、それでも危険を知らせに来てくださいました。わたくしが責める筋合いなどどこにありましょう」

「でも、このままじゃ!」

「レモン。着替えを。騒ぎが広がる前にこちらから打って出ます」


 なっ、とルナは絶句した。

 部屋の反対側でメイドも同じ表情をしていた。


「お、お嬢様! 無茶です、なにをなさるおつもりですか!?」

「こうして後手に回った以上、嘆く時間も今は惜しい。ドレスは貴族の戦装束。招かざる客といえど、正式な軍を相手にこんな格好で応対するわけにはいきません」

「ですが――」

「くどい」


 一喝、ピシャリと告げると、レモンはその声に打たれたように硬直した。

 表情を歪めて歯噛みしてから、言われた通りに部屋のクローゼットを開けて着替えの支度を始める。


 異を挟む余地がないのは、ルナも同じだった。

 ネーロは既に覚悟を決めている。

 勝ち目のない戦いに、それでもなお毅然と立ち向かう目をしていた。


 こちらへ向き直って、告げる。


「――先生は早くお逃げに。顔は割れていないにせよ、軍警察に接触するのは危険すぎるお立場。こんな形のお別れで残念ですが」

「あ、あなたはどうするつもりなの。いくら公爵家の娘でも、こんな強硬策に出る相手に無事で済む保証は」

「断罪を受けます。あえて」

「な……」


 ネーロが言ったことを、一瞬ならず受け止めきれず、ルナの思考が止まった。

 まったく頓着せず、ネーロは続けた。


「いかな軍警察、王室そのものが相手であろうと、オルニティア家の娘をすぐさま殺すことはできない。あえて捕らわれ、地下から事の真相を探ります。そしてお父様の助けを待つ……」

「馬鹿げてる! 危険とか以前に、なんのために!」

「成算は低いでしょうね。わたくしが生きて戻れるとは思えない。けれど、それこそがわたくしの役割。為して、果たすべき使命ですから」

「こんなわけの分からない陰謀のとばっちりで、なんであなたが死ななきゃならないのよ! 誰に義理立てしてんのよ、これが家名のためとかなんとか言い出したら、ぶん殴ってでも止めるからねっ!」

「ビアンカのためですわ」


 まったく躊躇なく、ネーロは言い切った。


 息を詰めるのは何度目か。

 まったく脈絡なく言われた言葉にルナが固まっていると、ネーロが苦笑した。


「――わたくしだって不本意ですわよ。御家のため、ならば喜んで死にもしますが、まさかそれが恋敵を救うためとは。けれどすべてはこの瞬間のため。それが幼き頃、悠久の大賢者ブライガン・ロン様より賜りし、わたくしの最大の使命ですから」

「な、なにを言って」

「詳しく話している時間はありません。ともかく、わたくしが入学当初よりずっと、ビアンカを監視していたのはこのためです。あえて汚れ役を買って出て、なにくれと理由をつけて彼女の傍らに在り続けたのも」


 悪役令嬢を『演じて』いたことすら、すべては定めの内だと彼女は言って。


「お嬢様。こちらへ。簡易な礼服ですが、1分で着付けられます」

「さようなら、先生。最後にあなたに出会えてよかった。叶うなら、もっとあなたの語る“恋のいろは”を聞かせてほしかった――」


 まるで、これがお別れだとネーロは笑うように。


「レモン。供回りをなさい。不甲斐ない主君ですが、あなたが必要です」

「……地の果てまでも」


 まったく躊躇なく言い切る主従に、もはや、ルナの言葉は届かなかった。

 そんな覚悟も、決断も、今のルナには重すぎた。


 なにも言えずに見ている内に、ネーロは貴族らしい正装に身を包んで、部屋のドアに手をかけてしまった。


「――ビアンカを、あの庶民の馬鹿娘を、どうかお願いします。あなたが守ってあげて。先生」


 ただそれだけ、寂しそうな笑みだけを残して、ネーロは去っていった。

 ただひとりの従者を連れ、きっと誰に知られることもない、無為な戦いに向かっていく。

 炎に向かう蛾のように。

 触れて、燃え尽きる、そのただ一度の瞬きのためのように、死地へ驀地ましぐらに突き進む。


 けれど。

 なのに、ああ、クソ、なんで、気づいていたのに止められなかった。


(指先の震えぐらい止めてから行けってのよ、あの馬鹿……!)


 そのくらいの時間、あったっていいだろう。

 せめてほんのいっときでも、時を止めてでも、ネーロを引き止めたかったのに。


 『先生』なんて、ルナがそう呼ばれるような人間なら、その肩を抱いて気の利いた慰めくらいかけてあげるとか、それくらいしなくちゃいけなかったのに!


 ――どうしたいんだ。

 ルナは、『ルナ』は、『私』は、ルナ・ダイヤルは。

 今、この瞬間、どうするべきなんだ――


 悩む内に、窓の外の騒ぎが収束しつつあった。

 どよめきが広がって、それとは逆に群衆の視線が一点に向かう。


 ネーロ・オルニティアが正門に姿を見せ、そして騎士たちが、彼女へと詰め寄るように殺到するのが眼下に見えた。




「――――!」


 抵抗する様子もなく、粛々と進み出るネーロ。

 だが、騎士のひとりがその肩を乱暴に掴む。


 間近の距離で怒声を浴びせ、しかし、短く何事か言い返されたらしい。

 騎士が腕を振り上げ、ネーロの白い頬を張り飛ばそうと動いて――


 ――その瞬間、けたたましい騒音とともに建物の窓が破れ、黒い影が落下する。

 そこにいた集団全員が、驚いてそちらを見やる……


 が。


「う、ごぉっ!?」


 濁った悲鳴が響いたのは、それらの視線とは真逆の方向。

 正門の近くにいた騎士が悶絶して倒れ込む。


 その傍らには――


「――どこまでも。馬鹿馬鹿しいくらい、おひとよしなんですから。先生……」


 黒いローブをはためかせながら、小柄な人影が立っていた。


 暗殺者、ルナ・ダイヤルが。

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