『これが現実』って、どういうこと!?

「――こほん。おはよう」


 咳払いして言い直したが、そもそもなんで挨拶してんの? と自分ツッコミする。

 悩むふりに忙しくてなにも対応を考えていなかった。


 ビアンカは、その声でやっとこちらに気づいたようだ。さっきのキョドり声は(運良く)ちょうど寝起きで聞こえなかったのだろう。

 彼女はぎょっとしたように仰け反りかけて、椅子の脚をガタッと跳ねさせた。


「あなたは……!? あなた――さっきの、殺し屋さん?」

「そうね。あなたを殺すのが仕事」

「……私を殺すの?」

「騒ぐようなら、今すぐにでも。そうしない理由もない」


 嘘です。適当に殺し屋っぽいこと言ってイキってるだけです。

 咄嗟に『ルナ』として振る舞ったのだが、どうやらこっちのほうが都合よさそうだ。

 ケレンでもハッタリでも、今はそれで押し通すしかない。


 通じたかどうかは分からないが――

 なんであれ、ビアンカはつぶやくように言った。


「でも……さっきは私を助けてくれた。地の底みたいな、影の中で」

「…………」


 ほらこれだ。厄介なことになった。

 この女、一番面倒くさい場面はしっかり覚えていやがった。


 まともに説明できるはずがない。気がついたら殺そうとしてて、気がついたら今度は助けていた。

 ルナの行動は矛盾だらけで、頭がおかしいとしか言いようがない。

 夢なんてそんなもんだって気もするけど、だったらだったで、もっとあれもこれも都合よく事が運んでくれたってよさそうなものだが。


 なんにせよ、そのまま説明するわけにもいかずルナは誤魔化した。


「勘違いしないで。質問するのはこっち。あなた、今の状況ちゃんと分かってる?」

「でも」

「どうやって影の世界に入った? 私を殺そうと追ってきたの?」


 いちいち聞き返されるのを嫌って、ルナは適当なことを口走った。

 もっとも、それはどちらも本当に疑問だったことだけれど。


 ビアンカが驚いて首を横に振った。椅子にくくりつけられたままだったから、ちょっと危なげに身体が揺れる。


「そ、そんな、殺すなんて。私はただ……ただ、ロッソ様が」


 一度声が途切れる。

 それはなにか、こらえきれない感情を噛み締めるような一拍。


「大事な友達が……傷つけられて。うずくまって、痛みに涙をこらえて、とてもつらい顔をしていて、必死で押し隠して。それを間近で見て。ロッソ様も心配だったけど、それより……あなたのこと……きっと私は、許したくなかった」

「…………」


 それで気がついたら走り出していたの。と、ビアンカは小さく声をすぼませた。


 持ち前のその行動力は、周囲を驚かせる――さっきのキャラ設定を思い出した。

 あの紹介文に合致するその言動に、ああ、やはりこの子は主人公ビアンカなんだなと改めて思う。

 優しく温かいだとか、そこらへんの性格も含めて。


 けれど同時に、ルナは逆のことも考えていた。


 ビアンカの言うことは至極まともだ。彼女の声には当たり前の感情、怒りと悲しみと哀れみと、倫理がある。

 紙に書いただけの設定ではなく、地に足をつけて生まれ育った人格の軌跡。

 それは心の証明とでも言うべきものだ。


 矛盾しながらも様々な感情に満ちていて、その気持ちに真っ直ぐ生きる姿。

 それはどこまでもこの上なく人間らしい。


 なにひとつ本当のことを言えない殺し屋モドキとは、まったく正反対だった。


 足元が揺らぐ錯覚がした。

 現実の世界に生きていた『私』より、ゲームの登場人物のビアンカのほうが、よっぽどちゃんとした人間みたいだった。


 ――頭を振って妄想を追い払う間に、ビアンカが言ってきた。


「あの影の中には、あなたが引き込んだんじゃないのね」

「……どうしてそう思うの?」


 言ってから、間の抜けたことだったと気づいた。

 実際にはできないが、ビアンカを罠にはめて魔法の世界に引きずり込んだなら、そのまま沈めて殺せばよかったのだ。

 なのにそうしなかった。


 ビアンカは、ちょっと複雑そうな顔をしてから答えた。


「あなたは……寂しい目をしているから」

「は?」


 トンチキなことを言われて、思わず素で反応してしまった。

 この闇の中で、ルナの顔が見えているのか? と、ズレたことを考えてから、『そういえばゲームの主人公ビアンカは視力3.0とかいう変な設定があったな』と、これまたズレたことを思い出す。


 なんとか暗殺者の顔と声を取り繕ってから、ルナは言った。


「それ正気で言ってる? あなたを殺そうとして、あなたの恋人を傷つけた殺し屋に? 私に同情なんて」

「人を見る目には自信があるの。昔から、なんとなく確信めいて分かることがある。きっとあなたは……人を殺したことは、ない」


「――――」


 驚いたのは、それが図星だったからだ。

 忘れていたはずはないが、しかし、まさか『私』が自覚するより先に人から指摘されるとは。


 暗殺者ルナ・ダイヤルは、正確にはまだ殺人者ではない。

 暗殺と格闘、それと、稀有けうな資質として魔法の訓練は受けてきたが、組織で仕事をするにはまだ足りない経験があった。

 それがそのもの、この手で人を殺すことだった。


 我知らず、というのだろう。『ルナ』がつぶやいていた。


「……あなたが卒業試験だった。組織の訓練の最終過程。あなたを殺せば、私はひとりの暗殺者として、初めて完成するはずだった……」

「誰かを傷つけて失って、それでなにが完成なの? そんなの成長じゃない、思考放棄して楽をしているだけ。心を殺して空っぽの人形になるのがあなたの望みだったの?」

「知ったようなことを」


 毒づいても、いまいち迫力がない。

 別に虚勢を張る意味もないのだが、言い負かされたみたいでなんだか癪だった。


(夢の登場人物に説教されるなんて、勘弁してよ……頭おかしくなりそう。つーか、本当に頭イカれたんじゃないかしら、『私』も『ルナ』も)


 思考を切り替える。

 ついでに話題を戻した。


「……さっきの口ぶりだと、あなたが“影”に入ったのもわざとじゃないわね。あの魔法、影の世界には、私以外に誰も入れないはずなのに。どうして?」

「? それは、私に聞かれても。ただ、足元の影が波打つみたいに揺れていて、足を取られて。気がついたら溺れていたから」


 原因不明、か。あまり期待はしていなかったが。


 まあ、なにせ相手は『主人公』だ。なにが起こっても不思議じゃないか、とルナはひとりで納得した。特殊能力チートだ、ご都合主義チート


「ずっと気になってたんだけど。あなた、その口」


 ここまでの会話もそうだったが、次にビアンカが言ってきたのも唐突だった。お互いに会話のキャッチボール下手くそか?

 一瞬なんのことか分からなかったルナに、さらに続けてくる。


「口の中、怪我してるんでしょう? 喋り方が最初からぎこちないし。治すわ。見せて」

「治す……って」

「私、光魔法の使い手なの。人の傷を癒せるのよ」

「はあ?」


 信じられない提案だった。

 いや、ゲームのプレイ経験から、プロフィールでは曖昧にされていたビアンカの魔法の正体が『治癒』であることはすぐに思い出せたが。


 ロッソルートのエンディングではあの脇腹の古傷も塞ぐし(トラウマを克服する象徴シーンだ)、また別のルートになれば、のちに教皇庁の癒やしの聖女なんて呼ばれたりもする。

 あるいは攻略対象を誰も選ばない“バッドエンドルート”では、人助けをしながら各地を巡る旅の魔法医になったりもしていた。


 だから信じられないのは能力ではなく、言葉そのものだった。


「……どうして? 自分を殺そうとした相手を、わざわざ怪我を治すって?」

「私がこれから殺されるとしても、あなたを助けない理由だってないもの」


 そんなことを言う。聖人みたいなことを、しかし素朴な口ぶりで。

 そこに嘘の気配はまったく見えなかった。


 考える。

 もう既にゲームのシナリオは破綻しているが(主にルナというか『私』のせいで)、少なくとも『ハーモニック・ラバーズ』作中のビアンカは、確かにこんな申し出をしてもおかしくない甘ちゃんだった。

 一枚絵スチルを100%収集し、ビジュアルファンブックの一問一答まで目を通した前世の――多分、現実の知識では、それは確かに言えることだ。

 ついでに、彼女の光魔法に癒やし以外の――攻撃能力がないことも知っている。


 その『私』は、まあいい。

 じゃあ『ルナ』は?


 この短い時間のやりとり、それだけしかビアンカを知らない暗殺者のルナは?

 信じるのか? たかが殺し屋未満の自分が。なにもかも自分とは正反対、殺し殺されるだけだったはずの相手を?


 ルナはつかの間、ためらって、それから――

 ビアンカの座るイスに近づいて、こっそり持っていたナイフで縄を切った。

 後ろ手に縛っていた両腕の縄も。


「……癒せ。ただし、騙せると思わないで。私に不意打ちは通用しない」

「はいはい」


 それはまるで、駄々っ子に言い含めるような苦笑交じりの声で。


 促されるまま口を開け、傷口をさらすルナ。

 立ち上がったビアンカが、ルナの被っていたフードを優しく持ち上げた。


 そして右手の指先を開いてかざすと、ゆっくりと唱え始める――


「――月の光は純血、女神の抱擁、清浄なる祈りをもってかの者を抱き清めたまえ。

治癒ヒーリング』」


 ルナの影魔法と同じく、ビアンカの魔法はその属性である『光』を媒体とする。

 廃屋に開いた天井の穴から差し込む月の光。

 それを癒やしの力に変え、ルナに分け与え、柔らかな熱が流れ込んできて――


 頭痛と錯覚するほどだった口の痛みが、波が引くように消えてなくなる。

 警戒していたような攻撃もない。

 本当にただ傷を治しただけだった。


 それに安堵しかけて――

 光魔法の、淡い白い輝きが収まるのと同時に。


 その瞬間、ルナは真後ろに飛び退っていた。

 意識して動いたのではない。単なる弾みだった。


 そちらにはあばら家の奥の抜け道がある。

 ビアンカが、驚いたように目をみはるのを、なんとも言えない思いで見やって告げた。


「――行って。私は、もう逃げる」

「私を……殺さないの?」


 わずかに緊張した声で、ビアンカ。

 ルナは告げた。


「お友達を傷つけたお詫びと、傷を癒やしてくれた礼よ。だけどこれで貸し借りなし。次は殺すわ」


 脅すだけ脅しておいて、ルナは返事を聞かずに走り出した。

 裏口の戸から勢いよく飛び出し、夜の裏道を滑るように駆けていく。


 そして胸の中で、今、はっきりと芽生えた思いを吐き出した。


(無理だ)


 私には殺せない。

 『私』はもちろん、『ルナ』にも。

 あの少女のことは、ビアンカはもう殺せなかった。


 たかがゲームの中のキャラクター。

 たかが素人の小娘ひとり。

 そう思っていたはずなのに、だけど彼女は今も生きてる。


 ビアンカ・サマサはこの世界で、誰より健気に真剣に生きている。

 それを思い知った。


 認めるしかない。


(ここは現実だわ)


 ゲームとよく似た世界なだけで、前世と同じ重みを持った実在する宇宙。

 これが一酔一夜の夢まぼろしだとしてもだ、もはや無視できない、受け入れ、向き合うしかないのだと。

 今度こそそれを実感して、噛み締める。


 殺さない。殺させない。私はこの世界で生きていく――


 それは前世で一度死んだ『私』と、そして、人のぬくもりに触れて初めて生まれた『ルナ』の衝動。

 魂の歯車がピタリと噛み合い、月時計ルナ・ダイヤルが時を刻んだ、最初の瞬間だった。


「――くちゅん!」


 けれどそんな決意より、冷たい夜風の中を走るルナに今必要なのは、それをしのげる屋根と壁と暖かい毛布だった。

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