『影魔法』って、どういうこと!?

 状況の把握は一瞬。

 ロッソは痛みでうずくまったままで、ビアンカは問題外。

 どちらも放っておいても脅威にならないのは分かっていた。


 トドメを刺すのを考えないでもないが、それより自身の安全確保が第一だった。


「君たち! 下がりなさい、あぶなっ――!?」


 用があったのはその手前、彼女らを守るように間に割り込んできた鎧姿の男だ。

 鎧といっても軽装の革鎧だが。その装備は既知のものだった。この街の憲兵である。

 ファンタジー世界らしく、腰には剣をいている。まったくどうでもいいが、確か『ゲーム』でも同じ格好のモブが校門の警備員として背景の隅に立っていた。


 高く飛び上がったのは、なにもビアンカたちを怖がらせる虚仮威こけおどしではない。

 ふたりを守って立ちふさがる男に、ルナは宙空から鋭い飛び蹴りを見舞った。派手な攻撃だが狙いはコンパクトに、憲兵の男の顎先を足刀で蹴り抜く。

 狙い澄ました打撃に頭を揺らされ、そいつはなにが起こったかも分からなかったろう、飛び出してきた次の瞬間には脳震盪で地面に倒れ伏していた。

 どさりと男の重い体重が崩れ落ちる音。


 武器を抜かれたら厄介だったため、身構える前に奇襲したのだ。一撃で無力化には成功したが、当然まだ油断できない。

 すぐさま視線を前に飛ばすと、同じ装備を身につけた憲兵がふたり、こちらに駆けつけてくるのが見えた。

 面倒なことに、さっきの男が倒されたのを見て既にどちらも抜刀している。


 この時点で、ルナはロッソたちへの追撃を諦めた。それほど興味があったわけでもないが。

 組織や依頼人への忠誠心などは、前世の記憶が蘇った影響でほとんど関心もなくなっていた。

 ふたり殺す間に、ふたり以上の敵に囲まれて斬りかかられるのではまったく割に合わない。


 ――こうまで端的に合理的に、一切の戸惑いも恐怖もなく選択し行動を決断できるのは、果たして前世の『私』の性格なのか『ルナ』の冷徹さが混じったゆえなのか。

 さもなきゃどうせ夢オチだと開き直って、せいぜい無双プレイを楽しませてもらおうとでも思っているのか。


 それは分からないが、どうであれ好都合には違いない。

 この状況でビビって怯めば死ぬだけだ、だったら、後でまとめて整理すればいい。


 豪胆かつクレバーにそう割り切って、ルナはまず目の前の相手への対処を考えた。こちらの武器は短剣が一振りだけ。

 切れ味はともかく、大の男の振るう直剣と打ち合うにはリーチと重量が足りない。

 さっきのロッソの時のように、一撃受けるだけで弾かれてしまうのがオチだ。


 ルナはすぐさまその場で身体をひねった。

 駆け寄ってくる憲兵ふたりのうち、先行している男に握り変えた短剣を投げつける。


「っ!?」


 というより、目の前に放り込んだだけに近いが。

 専用のこしらえもない格闘ナイフでは大した速度も出ないし、人体に当たっても筋肉の層は貫けない。

 ただし、大げさなほど上体をたわませた上に身体の陰からのアンダースローでは、相手にその安全・危険のほどが分かるはずもない。


 憲兵は慌てて立ち止まり、手にした剣で短剣を打ち払った。

 ヂィン、とガラス同士がこすれ合うような音が夕空の下に響く。


 その隙に、ルナは転がるように地を蹴って男の懐に踏み込んでいた。

 姿勢は低く、獣のように。

 華麗に足払いでも決められればよかったのだが、体重差を考えれば体勢を崩せるかも怪しい。

 強引に突っ込み、片足タックルの要領で男の左足を両腕で掴んで抱え込む。


 そのまま全力で、地面から引っこ抜くように足をすくって投げ飛ばした。


「どわあああ!」


 幸運も味方して、ひっくり返った男の身体はもうひとりの憲兵に激突した。

 ふたりでもつれ合うように絡み合って盛大に転倒する。


 なまじ、剣を手にしていたのが災いして、ろくに受け身も取れなかったらしい。

 目を回して星を飛ばして気絶する――なんて、漫画みたいな奇跡は起こらなかったが。

 ふたりしてバタバタともがき合い、余計にお互いの体勢を崩している。


 落ち着いて立ち上がるまで7、8秒程度。

 まあそんなところかと見て取って、息をついて――


 しかしそのまた後ろから、また同じ鎧制服の憲兵たちが、遠巻きの人垣を割って姿を現していた。


 今度は四人。


(あーもー! キリがないっ!)


 胸中で悲鳴混じりに叫ぶ。

 さすがに四人同時に相手して勝てるわけがない。

 よしんば勝てたとして、じゃあ次は倍々算で八人が来るだけだろう。


 勝つイメージが浮かばないのでは、ここが夢でも現実でも関係ない。

 ていうか夢ならなおさら負けるに決まってる。

 筋が通った理屈ではないが、まあなんとなくそういうものだろう。


 となれば打つ手はひとつしかない。

 ルナはくるりと身体の向きを変えた。


 ようやく痛みをこらえて起き上がろうというロッソと、その身体を助け起こすビアンカのほうを見て……

 そしてきっぱり無視して、脱兎のごとくそのすぐ横を駆け抜けた。


「ま、待て! ――逃がすな、追え!」


 後ろで憲兵たちが叫ぶのも聞こえてきたが、構わず全力で走る。こんな街のど真ん中で、本来は逃げ場もなかったろうが。

 前にいた世界ではそうだったろう。だが、あるのだ。この世界にはそういう“抜け道ズル”が。


 懸念は、ギャラリーと化していた群衆が奮起してルナの逃げ道を塞いでくる可能性だったが――

 とりあえずそれは杞憂に終わった。ルナが走って近づくと、彼ら彼女らは悲鳴をあげて道を開けた。

 賢明なる『ハーモニック・ラバーズ』の住人さん、ありがとう。


 建物の陰、路地裏に続く通りの暗がり。ルナはそこに駆け込んだ。


 足元には影。街の裏側へ続く複雑に入り組んだ建物の連なり。

 斜めに差す夕陽が、さらに長大に影を引き伸ばしている。


 死角に入る。街の死角に。

 群衆や憲兵の視線が一瞬だが途切れたのを気配で察して、そこで立ち止まった。


 息を吸い、吐き、深呼吸をふたつと半分したところで意識を集中する。

 生前の世界の漫画やラノベの――よくある、あの、あれだ。足元から不可視の力が立ち昇るイメージ。

 オーラと波動、思念と構成、空想の血流を新しく体内に生み出すような。

 心臓の鼓動に乗せるように、その血管を周囲の地面に――『影』の中に投射する!


(詠唱は……適当に……格好いいやつ……ああもうっ)


 なにか唱えたかったが、気が急いてそれどころではなかった。

 角のすぐ向こうから、誰かの駆け足の音が聞こえていたのだ。十中八九、憲兵隊の追っ手だろう。


 しゃにむに叫ぶ。


「飛び込め! 『影潜りシャドウ・ダイブ』っ!」


 なんとか『ルナ』の記憶から、その魔法・・の名前を引っ張り出した。

 これがこの世界の“抜け道”だ。


 ドブンっ、と重く濁った音を立てて、ルナの身体が路面に沈み込んだ。

 正確にはそこに落ちる建物の“影”の中に。


 一瞬で首まで埋まり、その次の一瞬で全身が埋まった。

 別にそれが見えたわけではないが。


 実際にルナに見えていたのは、天地が反転した世界だった。

 地面の裏側に潜り、街の建物と空を見下ろしている。

 影の中の世界だ。


 見下ろすと言っても、沼の底から空をのぞくような限られた光源だ。

 影の世界は厳密には地下ではないが(下水や地下道の空間があってもそこには出られない)土の中にいるのと大差なく、視界はほとんど利かないし空気もない。

 息をすれば泥水を飲んだようにむせ返り、意識が遠のき、多分、最後は溺れて死ぬ。

 ろくでもない世界だ。


 それでも今は、このろくでもない方法に頼るほかない。

 表の世界から消失し、影の繋がる限りの範囲を泳いで移動できるこの魔法に。


 ビアンカの暗殺後――あるいは“万一”失敗した時のために、逃走経路と手段として用意していたのがこの魔法だった。と、『ルナ』の記憶から思い出す。

 ただし、今はどう考えても『追っ手から全速力で逃げた後にほぼ息継ぎなしで泳いでさらに逃げるのは無茶振りだろう』としか思えないが。


 ルナがよほどの馬鹿だったか、これも『ハーモニック・ラバーズ』のシナリオが強制したのか。

 どうにも『私』には理不尽な不都合ばかり押しつけられている気がする。


 ――しかし、まさかルナが魔法を使えるとは。

 夢とはいえちょっと驚きの事実だった。


 原作(?)ゲームの『ハーモニック・ラバーズ』では、確か魔法は、貴族と王族の血を引く人間にしか使えない特別な能力だったはずだ。

 それを扱う殺し屋って、どういう立ち位置の何者なんだか。

 やっぱり夢のファンタジー世界なんじゃないか、ここ。


 それにしてもこの“影”魔法、なんだこれは。

 せっかくの夢のくせに、ジメジメしてて気持ちが悪いし、やたらとリアリティや弱点を突きつけてくるのはいったいどういう了見なんだろう。


 ままならない。

 ああ鬱陶しい。

 よしんばマジで異世界転生してたとして、だったらなおさら、もっと余裕で無双できてもよさそうなものなんじゃないか?


 なにかそういうアングラ系の性癖や願望でもあったのかしら、『私』――


 ――考え事をすると脳が余計な酸素を消費する。潜水競技などではそれが明暗を分けるという。

 なんとなく前世の知識でそれを思い出すと、ルナは手足を振って身体の向きを変えた。

 呼吸にはまだ余裕があるが、無駄遣いするほど余ってはいない。


 半ブロック向こうの隠れ家から、抜け道を使って街の外へ脱出する。

 どうやらそういう手筈だった。

 ともかくそちらへ向かおうと、息を止めたまま泳ぎ出して――


 ドボンっ


 と、さっき我が身で聞いたのと同じ音が聞こえた。

 背後でなにかが沼に、影の沼に沈む音と振動。


 さすがに驚いて振り返る。

 まさにその通り、人型の影がこの“影”の世界に飛び込んできていた。

 というより、足を滑らせて転がり落ちたような――手足を広げた大の字みたいな不格好な姿で。

 見通しの利かない影の中で、人相も格好もまるで分からないが。


 何者だ? ――追っ手か?

 だがそれはあり得なかった。


 あり得ないはずなのだ。

 影の世界に潜り込めるのはルナひとりだけだ。魔法の性質、というか設定からしてそうなのだ。少なくとも『ルナ』の記憶の限りでは、ここには誰かを連れ込んだり引きずり込んだり、まして後を追って飛び込んだりなどできないはずだった。


 たまたま同じ影魔法の使い手がいて、ルナを追跡しようと飛び込んだ?

 考えにくい可能性だが、仮にそうだとしても、あんなに無様に溺れていては意味がない。

 ルナを誘い込む演技にも見えない。


 夢にしても突拍子なさすぎて、完全にまったく予想外の展開。

 さっぱりわけが分からない――


 そして、警戒の眼差しを向けるルナの目の前で、その何者かは激しく咳き込んでもがき始めた。

 バタバタと四肢を振り、暴れてもだえて。


「……ガ、ボっ!」


 ついに濁った息を吐き出して、動きが止まった。

 呼吸の限界、影の泥水を呑んでしまったのだろう。

 身体から力が抜けて、プカプカと浮かんで――いや、浮かび上がらない。


 逆に地面から遠ざかる方向に、影の沼の奥深くへ向けてゆっくりと沈み始めた。


「…………」


 放っておいたら、多分、死ぬ。

 この“影”の世界からでは、無事に遺体が上がる保証もない。

 『ルナ』の記憶にまったく前例ない事態で、当然自分の身で試したこともないので、どうなるのか本当に分からなかった。


 声には出さず葛藤して――


(――ああ、もうっ)


 気がつけばルナは、引き返してその人影を抱きとめていた。

 人形のように動かない重い身体を抱えて、今度こそ泳ぎ出す。


 眼下の地上では、憲兵団が殺し屋の姿を見失って右往左往するさまが見えていた。




 隠れ家までの道のりの半分ほどをなんとか泳ぎ、人目を避けた位置で表の世界に飛び出した。溺れていた人影も一緒に。


 そして殺し屋は、あるいは前世の女子大生は、自分の迂闊さを激しく後悔した。

 夢なら今すぐ覚めてくれ――と。


 ぐったり気を失ったその少女は、ゲームの主人公ビアンカ・サマサだった。

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