第5話 幡宮市立動物園
幡宮市立動物園は市街地南部にある亀山という小さな山の上に建てられており、私たちは「亀山ゴンドラ」という名前のロープウェイに乗りこんで移動していた。
高所恐怖症の私はできるだけ真下を見ないようにしていたのだが――
「――で、今はとりあえず
春華さんに何の仕事をしているのかと尋ねられて答えていたのだが、細いワイヤーに頼りなく宙吊りになった客車を想像するとつい意味不明なことを口走ってしまう。
しかし、当然。
「何すれ?」
秋実さんが訝しげに尋ねる。
「……って、分かるはずないよね。ごめん」
変なテンションになってきた私は、ラララライ体操と「空前絶後ぉ~」という掛け声を真似してみた。リズム芸系は並行世界の人間にもウケるようで、秋実さんは楽しそうにケラケラと笑っていた。
春華さんときたら、私を見て笑うどころか複雑な表情で唇を噛んでいる。
そんな話をしている時、風に煽られたのか、ガタン、という大きな音とともにロープウェイが揺れた。
「うぉっ!! このロープウェイ結構揺れるな」
私は思わず足の下の方を見てしまった。そこには美しい秋の自然あふれる野山が……って怖い怖い。
「怖がりすぎざっぱ!」
春華さんは手を叩いて、思い切りバカにしたように笑った。
「後、『ロープウェイ』ぜぁらんで『ゴンドラ』か『トゥレム』ざ。英語は正しゅう使い」
私はついムッとして、竦む足を抑えながら反論した。
「いや、『ロープウェイ』と『トラム』は違うでしょ」
すると、ずっと黙っていた秋実さんがいきなり「ハルちゃん!」と言って会話に入ってきた。
「幾多郎くぬゎ、ちっくし常識が欠けちゅんぜん、すったん笑ぁちゃ
秋実さんは少し怒った様子だった。
私をかばってくれているのはありがたいが、それにしてもこの言いようだ。
「……うめぇがすれ言うけ?」
春華さんは秋実さんを軽く睨み返し、二人の間に微妙な空気が流れた。
さっきからこの二人の間に妙な不協和音を感じるな。
「で、くれからづったする積もりなんざ、旅っ
春華さんは話を戻した。
「たびっつ?」
「外地から
それを聞いた秋実さんがとても悲しそうな表情をする。
「……帰ってまうんけ?」
そんな目で見ないでくれ、秋実さん。
「いや、まだしばらくは奈津崎にいますよ。もういっそのことずっとここに住んで、またパソコン関連の仕事でもしようかな。前はプログラマーだったし」
この世界のパソコンで使われているプログラミング言語が自分の知っているものと似通っていればいいのだが。
「前は、て……、あれけ?」
そう言って春華さんは手で首を切るジェスチャーをした。
「いや、そういうワケじゃないんですけど、事情があってしばらく故郷に帰れそうになくて……。まぁ、戻れるならいつかまた戻りたいんですけど」
異世界転移の件についてあまり触れたくなかったので、歯切れが悪くなってしまった。
しばらく俯いて黙っていると、春華さんはこんなことを聞いてきた。
「
私は首を縦に振って、ため息をついた。
「……はい、ちょっとだけ」
そして私は、そこから少し長話をしてしまった。
「十年近く会社勤めをしてて、決して充実した楽しい毎日を送ってたワケでも何でもないんですよ? 毎朝同じ時間に起きて、同じスーツを着て、同じ仕事をして、同じ人と会って、同じ食事をして、目がさえてても無理やり寝て、次の日起きたらまた同じことの繰り返し……」
過去を思い出していると、段々しんみりとした気持ちになってくる。
「でも、不思議なもんで、突然それがパッ、て消えてしまうと心にぽっかり穴が空いたような感じがして……。まるで抜け殻になってしまったような、そんな切ない気持ちになるんです」
私の視線は遥か遠く、山の下に広がる幡宮市の街並みに移っていた。ここからは幡宮城や何かのタワーのような高い建物がよく見える。
「奈津崎県に来てから何もかも目新しいことばかりで、それはとても楽しいのですが……」
やはり、私は帰りたいのだろう。
遠く離れてみて、私は日本が好きだったということに気づかされた。
今ではあの同僚の田中さんや、納豆のかかったご飯ですら恋しく感じる。
「結局、私はよそ者なのかな……」
一連の話を聞いた春華さんは何とも言えない表情で、
「……まぁ、さー言う気持ちはウチも分かるかな」
と、独り言でも言うように小さな声で呟いた。
「いづれにせよ、当分帰れんならいつまでもステンバッちゅるワケにゃいかんぱ?」
彼女はなんだかやけに明るい口調で励ますように言った。
「そうですね。ホント、これからどうしたもんかな……」
するとここで秋実さんが話に入ってきた。
「なーなー、きっちゃん。『パソコン』て何が意味ざ? 専門用語け?」
やれやれ、私は反省した。
「……はいはい、すみません。元々はコンピュータ関連の仕事をしておりましたが、現在はスーパーマーケットでパートタイムで働いております」
私は略称を使うのをやめ、できるだけ正しい英語を使うように心がけてみた。
「オーゥ、アイ・スィー!」
春華さんが再びバカにしてくる。
ムカつくなぁ。
それでも、奈津崎県民の和製英語禁止ゲームに付き合っている内に、私はなんとか気分を紛らすことができるようになっていた。
閉園ギリギリの四時半に滑り込んだ私たちは、正味三十分ほどしか滞在できなかった。しかし秋実さんはとても楽しそうだった。
「はー! まーーっさ
ちなみに今、秋実さんが夢中になって見ているのはライオンである。こんなにライオン好きな女子は初めて見た。
「秋実さん、テンアゲだね」
「天ぷら揚げるがは苦手ざ」
「テンション上げ上げ、ってことだよ」
百獣の王は今日はもうお疲れのようで、床にうずくまって居眠りをしていた。
「ニャー助みたいざね」
「確かにライオンもネコ科だけどさ。っていうか、他の動物見ないの?」
他にもコアラだのレッサーパンダだの可愛い動物がワンサカいるのに、秋実さんはライオンの檻の前から動こうとしなかった。
私は秋実さんを説得するのを諦め、その辺のベンチに腰掛けて休憩することにした。
もうじき閉園ということもあって、夕暮れの動物園は時折動物の鳴き声が聞こえることを除けば割と静かだった。
今日は一日方々歩いて疲れたな。
秋実さんの後ろ姿を遠目に観察しながら休憩していると、春華さんがジュースを片手に歩いてきた。
「座ってええけ?」
彼女はそう言って、私の隣に腰かけた。
「秋実さんって、なんだか見た目は大人、頭脳は子供みたいですよね」
すると、春華さんは高笑いした。
「それな。あん子は昔から始終変わらんな。思いつきで行動するタイプ、ちゅうけ」
なんだか引っかかる物言いだな。
そう感じながらも、私はできるだけ当たり障りのないことをと思い、
「でも、自由でいいですよね。マイペースって言うか」
「ざっぱ?」
春華さんは瓶に刺さったストローから口を離して返事をした。
「それ、ここでも売ってるんですね?」
私は彼女の持っている黄色いガラス瓶を指さした。
「そのレモン味のラムネ……じゃなくて、ラムネ、でしたね。いけない、いけない」
すぐに気づいて、私は訂正した。
しかし。
「……別に、気にしゃんで良せ。さっきはただからかぁてだけざげん」
意外にも、春華さんはそんなことを言った。
私は苦笑しながらも話を続けた。
「奈津崎県って、レモンにまつわるものが多いですよね。そのラムネもそうだし、レモン戦士シュワッチャーとか、『レモン姫』の鈴木ランカとか?」
秋実さんの車に乗るとき、いつも鈴木ランカの「恋はラムネ色」がかかっていたのを思い出した。
春華さんはうんうん、と頷いた。
「
彼女はそう言って、「ウチの恋はラムネ色~♪」とサビの部分を歌ってみせた。
「まぁ、奈津崎と言やレモン、レモンて言や奈津崎ざ。レモンが嫌いな奈津崎県民なんて居らんぱ?」
春華さんは自信たっぷりに笑顔でそう締めくくった。
「こないだ秋実さんが『レモン嫌い』って言ってましたよ?」
「……
春華さんはさも意外そうに眉を吊り上げ、飲んでいたラムネ瓶をベンチの横に置いた。
オレンジ色の夕日を反射してキラキラと輝くこの瓶――私にはそれが、同じ「レモン」というものを見ても、奈津崎県の人と私ではこんなにも違うということを体現しているようにすら思えた。
「レモン、か。『レモン』って言ったら、私は米津玄師しか思い浮かびませんよ」
〜〜〜、とイントロの部分を少し歌ってみせた。
異世界で流行った名曲を披露したところで、この日本に住む人にとっては何やら聞き慣れぬ音楽でしかないだろう――
そう思っていた。
「……もう少し歌ぁてくれる?」
サングラスで目が隠れていてよく見えなかったのだが、あの時相槌を打つ春華さんの顔から笑顔が消えたように見えた。
「い、いいですよ」
私は彼女の異変に気づきつつも、そのままサビまで歌い上げた。春華さんは目を閉じて静かに私の下手くそな歌声に聞き入っていた。
「ええ曲ざね」
春華さんは歌い終わった私にパチパチ、と小さく拍手をした。
「ですよね。やっぱり米津って天才……って、誰だか知らないよなぁ」
昔流行ったんですよ、と私は笑いながら付け足した。
しかし、彼女はサングラスを外すと、いやに真剣な表情で私を見つめた。
「他に何か知っちゅる曲あるけ?」
「えっ? まぁ、ハイ」
「歌ぁてくれる? 知っちゅる曲、全部」
彼女はお願い、と言って私の前で手を合わせた。
「……私はジュークボックスじゃないんですが」
春華さんはハハッ、と歯を見せて笑った。
「佐藤くんと話しちゅると
「……さっきから思わせぶりなこと言わないでくださいよ」
私は春華さんの言った「魅力的な男」という言葉が引っかかっていた。
すると。
「勘違いするな、て。恋愛対象ざて言うちゅるワケぜぁなせ。ガランすてけ?」
「……ガランする?」
「ガッカシする、て
春華さんは私から顔を背けると「運命てヤツは
「ほら、そういう」
私が咎めると、春華さんはベンチから立ち上がった。夕闇に黒ずむ空の下、彼女が見せた笑顔はどこか寂しげだった。
「もっと早ぁ会ぁちゅれば、ね」
彼女はそう言い残し、一人でどこかへ行ってしまった。
「……俺って、そんなに美声だったかな?」
一人その場に取り残された私は、歌が上手すぎるのも罪だよな、とかそんなことしか考えられていなかった。
考えてみれば、この日の春華さんの言動は何かにつけて意味深だった。
だがこの後、彼女の一連の不審な挙動について考えていくうちに、私の中にあった疑念がある一つの確信へと変わった。
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