第10話 離合注意
午後になって、私は
ともすれば、貝久保さんは人懐っこくておしゃべりなおじいさんだった。彼は部外者の私に興味津々という感じで、車内で私と二人きりになるとベラベラと話しかけてきた。
「
トラックのエンジンをかけるなり、彼は開口一番にそんなことを尋ねた。
答えに困る質問だったが、さすがに住所不定無職だとは言えないので元いた世界での職業を答えた。
「プログラマーですけど……」
そして二番目の質問がこれ。
「稼ぎは?」
いきなり収入を聞くか、普通。
奈津崎風の初対面の挨拶にカルチャーショックを受けてしまい、私は本気で怒らない程度に彼を窘めた。
「ちょっと、ちょっと……、なんでいきなりそんなプライベートなこと聞くんですか?」
しかし貝久保さんは全く怯まない。
「
話が早すぎだろ。
展開が早すぎると思って、私は全力で否定した。
「ちっ、違いますよっ! まだそこまで――」
「ざが、秋実っちゃった好きざっぱ?」
貝久保さんは眉を上下に動かしてニヤリ、と笑った。
「いや、その、なんていうか……」
正直、まだ会ってから二日目なのでそういう感情を抱く段階に至っていないというのが本音である。が、それを言ってしまうと今晩宿無しになってしまいそうなのでそうも言えない。
「ま、まぁ、まだ出会ったばかりなんで……、これからお互いのことをもっとよく知って、関係を発展させられたらいいかなー、なんて……」
私がモゴモゴしていると、カンの鋭い貝久保さんは全てを見抜いたようだった。
「すったん、
答えたくなかったので黙秘権を行使。
だが、貝久保さんは口を閉ざす私の
「ハ! やっぱしさーけ。分かりやっせ
彼はさらに追い打ちをかけた。
「うめえ、
「す、
「バーヂン、て意味ざい。バーヂンけ?」
不意に急所を突かれ、私は発狂した。
「どどど……、バージンちゃうわ」
「
決めつけはよくないと思うんだ。図星だが。
目に見えて狼狽える私を見て、貝久保さんは失望したように額に手を当てた。
「
貝久保さんは謎のマウントをとりつつ、未来ある三十歳の
「
「……なんかさっきよりも規模が拡大してませんか?」
急に前方から車が接近してきて、貝久保さんは「やいやい、
その後、私は農園のあちこちに残されたレモンの入ったコンテナを荷台に積み込む作業をすることになった。が、これがまた相当きつかった。
直射日光がもろに照り付ける農道の上で、私はコンテナを一旦道路に下ろしてその場にへたり込んだ。
「腰が……、腰の骨が砕けそう……」
私は地面に直接膝をつき、激しく脈打つ鼓動と荒くなった呼吸を抑えていた。しかし貝久保さんはそんな私にも容赦ない。
「
貝久保さんは先ほどから自分はトラックの運転席に座ったまま一歩も動かずに「あん山ん上!」とか、「すくん坂道ガ
「ムリですよ……。こんなに大量にあるんじゃ」
貝久保さんに全ての作業を押しつけられて私はヘトヘトだった。
おじいさん方が腰を痛めてしまうということで、私が代わりにやっているのだが、それにしても量が多い。その上、コンテナの一つ一つが鉄くずでも入っているのではないかというぐらいとてつもなく重い。
へこたれる私を見て、貝久保さんはハン、と鼻を鳴らしてバカにしたように笑った。
「
過去の栄光を自慢することに余念がない貝久保さんにウンザリしながら、私はもう一度コンテナを抱えてトラックに向かって叫んだ。
「っていうか、『だらすけ』って何の意味なんですかー?」
すると貝久保さんはすぐさまこう答えた。
「『脳留守』て意味ざい。頭カンプスて
方言がきつすぎてとりあえず罵られているということしか分からない。「バカ」とか「頭が空っぽ」とかそういうことだろうか。
「さー言や、うめえマニュアル車ん運転む
貝久保さんはスカスカの歯をむき出しにして得意げに笑った。
奈津崎県民のマニュアル車に対するこのこだわりは何なんだろう。
さっきからずっと言われっぱなしで腹が立ってきたので少し言い返してみた。
「でも、このトラックって、貝久保さんのじゃないですよね?」
私は彼の乗っている軽トラックのドアを指さした。そこには「木中レモンファーム」の文字があった。
「
貝久保さんは少し残念そうにぼやいた。
「ビーサン?? 何ですか、それ」
すると貝久保さんはここぞとばかりにまたバカにしてきた。
「
なんとも妙な略し方である。この言い方では『タクシー』と『停車』を区別できまい。
「『ナールス』って、新種のウイルスの名前か何かですか?」
私は必死でボケてみた。
しかし。
「『
また意味の分からない罵倒語が飛び出して、私は理解するのをあきらめた。
だがとうとう何か怪しいと思い始めたのか、貝久保さんは核心を突く質問をしてきた。
「うめえ、実際づっから
おっと、それは機密事項だ。
説明に困ることを聞かれ、私は答えに窮した。
「私は……、
まさか異世界人だとバレるわけにはいかないので、ここは適当に無難なことを言ってごまかすことにした。
しかし、こんなあいまいな答えに貝久保さんが満足するはずもなく、彼はさらに詮索してきた。
「ハッキシ言い、
知らないので答えられない。
「
同上。
「
めんどくさくなってきたので、とりあえずそこにすることにした。
「……はい」
返事をしながら、私は冷や汗をかいていた。しかし貝久保さんは私の咄嗟の出まかせになんとか騙されてくれた。
「やっぱしさーけ、
その言い方は刺さるな。
私はイライラして、ついまた言い返してしまった。
「貝久保さんこそ、さっきから助詞の使い方がおかしいじゃないですか?」
「何ガ話ざ?」
貝久保さんのキャラクター以上に彼の方言が強烈すぎて突っ込むのを諦めていたが、私はとうとう指摘してしまった。
「『道に入る』、『用を足す』、『車に乗る』でしょ?」
しかし貝久保さんは別段間違いを恥ずかしがる様子もなく、先ほどと同じ言葉を繰り返した。
「『道ガ
なんで何でもかんでも「ガ」なんだ。
いくら田舎のお爺さんとは言え、ここまで文法が崩壊していると意思疎通に問題が生じるはずだ。
業を煮やした私はなんとかして貝久保さんをやり込めようとした。
「じゃあ、『私が窓を開ける』は何て言うんですか?」
「『
「それじゃどっちが主語か分からないじゃないですか?」
「すなんが、『
「それはそうですけど……」
やはりこれは並行世界ではなく、この宇宙に生じたただのバグに違いない。
貝久保さんに言いくるめられてしまって悔しかった私はそう思うことにした。
作業を続けること二時間。
当初は貝久保さんの悪辣な人間性に面食らったが、無事一通りコンテナを荷台に積み終わり、私はトラックの助手席に腰かけて休憩していた。
車内は西日が差していたが、気温が落ちてきたので日中と比べそこまで暑くはなかった。近くを流れる農業用水のせせらぎを聞きながら、私は運転席側の窓を開けて煙草を吸っていた貝久保さんに尋ねた。
「貝久保さんもレモン農家なんですか?」
貝久保さんは苗字からして木中家の人ではないのだろうが、なぜ今日は来たのだろう。
「いや、
貝久保さんは煙草をふかしながら、この丘から遥か向こうに広がるオレンジ色に染まった海を指さした。
「
貝久保さんはもともと
こんな彼も、かつては魚を追って船一つで果敢に荒波に挑む海の男だったわけだ。
「海は
貝久保さんは海の方を見つめながら鼻の下を伸ばした。
いや、そこしか見てないんかい。
貝久保さんが女を追ってビーチをうろつくただの助平親父だったと判明したところで、今度は彼が私に質問してきた。
「
その質問は困る。
実際にその場所に海があるかどうか知らないので、私はとりあえず自分の故郷の話をした。
「……ないですよ。まあ、海に行ったことはありますけど」
実際、埼玉生まれ埼玉育ちの私は幼い頃海に行った記憶がなかった。だからこうしてすぐ行ける場所に海がある、というのが単純に羨ましかった。
「奈津崎県はいい場所ですね。海もきれいだし、レモンの木もいっぱいあって」
なんとなく言ったつもりだった。
すると貝久保さんはまた見下したように笑って、意味深なことを言った。
「うめえら
本物の苦労、という言葉が引っかかった。
どういう意味だろうと悩んでいると、貝久保さんは遠い目をして語り出した。
「
「
貝久保さんは昔話を続けた。
「うめえらは知らんつ
私はここでもう一度確認した。
「
すると貝久保さんは興味深いことを言った。
「
貝久保さんの話によると、戦時中アメリカ軍と日本軍は南海道南部で熾烈な戦いを繰り広げ、夥しい数の民間人が命を落としたらしい。そして
「
「ちょっと待って」
複雑すぎるだろ。
ハプスブルク家並みに入り組んだ家系図に頭がパンクしそうになったが、私は分かる範囲の情報を整理してみた。
「とにかく要するに、
いとこ同士で結婚する――日本でも一応合法ではあるのでそういう話を何度か耳にしたことはあったが、実際にその当事者を目の当たりにするとびっくりしてしまう。
それにしても、そんなに近い親戚同士で代々結婚して、血が濃くならないのだろうか。
しかし貝久保さんはそれよりもさらに驚愕の事実を口にした。
「さーさー。秋実っちゃみてーな話ざ」
「……えっ? どういうことですか?」
すると貝久保さんは「何ざ、うめえ知らんざってけ?」と言いながら皺くちゃの目を大きく見開いた。
そして彼が発した次の言葉に、私は耳を疑った。
「賢君ぬゎ、秋実っちゃン婚約者ざってんざい」
私の頭の中に雷鳴が鳴り響いた。
秋実さんには婚約者がいて、しかもそれが自分のいとこだなんて。
「……まあ、田舎ぜぁ
あまりの青天の霹靂に言葉を失う私に、貝久保さんは慰めるようにそう付け加えた。
奈津崎県では近親婚が推奨されてでもいるのだろうか。
さすがに我慢ならなくなって、私は思い込みでしかないことをついボロッと言ってしまった。
「いやいや……、木中家ではそれが代々伝わる風習なのか何なのか知りませんけどね、いくらなんでもさすがに二代連続いとこ婚はダメでしょう。
大体、いとこ同士だって言ったって必ずしも仲がいいってわけでもないでしょうに、親御さんが勝手に決めた相手と無理やり結婚させられるなんてかわいそうって言うか、時代錯誤って言うか……」
私は自分の倫理観を盾に反撃を試みたつもりだった。しかし、貝久保さんは道端にある小さな
「あん二人、家む
その瞬間、私の脳裏に秋実さんとサカシくんの二人が幼少期から中学、高校、大学、社会人と何十年もの間お互いの両親公認の交際を続け、めでたくゴールインする情景がありありと浮かんできた。
脳内BGMがベートーベンの「運命」に切り替わり、私はいよいよどうやっても勝ち目のない長身の幼馴染への完全敗北を覚悟した。
瀕死の重傷を負いながらも、私は震える唇で次の問いを口にした。
「……お二人は今でも交際されてるんですか?」
貝久保さんは否定するように顔の前で手を横に振った。
「いや、
そう言って貝久保さんは口ごもり、視線を逸らした。
またよく分からないオノマトペが出てきて最後の部分が分からなかったが、私はひとまず胸をなでおろした。
さすがに結婚していたらお祭りで知らない男の人に声を掛けないよな。
しかしそれを聞いて、今度は別の疑問が湧いてきた。
「ガタグタ、って……、何かあったんですか?」
すると貝久保さんは気まずそうに俯き、返事を渋った。
「まぁ……、くん話はなぁ……」
私はただ、純粋に好奇心に駆られていただけだった。
「もっと具体的に教えてほしいんですけど、秋実さんとサカシさんとの間に一体何が――」
私が肝心な質問をしていたところで、思わぬ邪魔が入った。
「――きっちゃん」
不意に右から誰かに声を掛けられ、ふと車窓から外を見るとそこには秋実さんが立っていた。朝と違い、彼女はもうあの完全防備のような帽子は外していた。
「うぉおおっ!!」
突然の出来事に驚きすぎて、私は車の天井に頭をぶつけてしまった。私は痛みに悶えながら、助手席にうずくまって頭を押さえた。
「……大事け?」
秋実さんが心配そうにのぞき込んできたので、私は虚勢を張って笑ってみせた。
「大丈夫、大丈夫……。ちょっとびっくりしただけ」
私は助手席側の窓を開いて体を乗り出した。
「えっと、その……」
私は彼女の顔色を窺っていたが、彼女はただ怪訝な様子だった。
「……何ね?」
彼女はいつになく低い声で話しかけてきた。
ええい、ここまで来たら仕方ない。
私は単刀直入に切り出した。
「さっきの話、聞いてた?」
しかし彼女はきょとんとした表情だった。
「何が話?」
秋実さんはまた例のバグった日本語で返事をした。
よかった、聞かれていなかったようだ。
「一緒に帰らー? まー晩飯ん時間ざに」
秋実さんは私に笑いかけ、車の外から手招きした。そうして私はトラックを降りて彼女と一緒に帰ることにしたのだった。
しかし私が車外へと出ようとしたタイミングで、背後から貝久保さんが小さく独り言を言うのが聞こえた。
「……
「離合注意」と書かれた看板の置かれた畑沿いの坂道を歩きながら、私は秋実さんに話しかけた。
「どこにいたの? 今日一日、ずっと見なかったけど」
彼女は一瞬顔を顰め、そっぽを向いてしまった。
「……別に」
今朝と違って秋実さんはあまりしゃべらず、不機嫌そうだった。私は彼女の様子をちらちら確認しながら、適当に間をもたせようとした。
「貝久保さんって、ホントキョーレツなキャラだよなぁ……。さっきも色々質問攻めにあっちゃって大変だったわ」
すると秋実さんはくるっと顔をこちらへ向け、申し訳なさそうな目で私を見つめた。
「……
彼女は謝ってきた。
確かに勝手だとは思った。
しかし気の毒、というのは言い過ぎじゃないか。
「いいよ。こうして泊めてもらってるわけだし、俺こそ感謝してる」
昨日と同じく私はあくまでも秋実さんにお礼を言って、歩きながら大きく伸びをした。すると腕の関節がボキボキ、という妙な音を立てた。
「まあでも、確かに今日は疲れたわ」
今日一日腕やら腰やらを酷使したせいで、体中の筋肉が悲鳴を上げているようだ。
毎年秋になる度にこんな風にレモン狩りを手伝わされているのだとしたら、確かにうんざりするかもしれない。
レモン畑に吹き渡る秋の涼しい風と、遠くから聞こえる虫の音。田舎の風情あふれる情景を前に、私はこう呟いた。
「『全身の、筋肉痛と、秋の虫』……。あれ? これ、五・七・五になってるな」
意図せず一句詠んでしまって独り笑いするも、私の声が耳に届いていないのか秋実さんはどこか明後日の方を見てぼうっとしていた。
彼女は後ろ手を組んだまま空を見上げていた。彼女の視線の先、私たちの頭上には赤から黒のグラデーションを描き出す美しい秋の夕空があった。瞬く星たちの下で、秋実さんは両腕を空に向かって大きく広げると、思い切り大きく息を吸い込んだ。
「レモンなんて、まーっさ嫌いっ!」
秋実さんは辺りに山びこが聞こえるぐらい大声で叫んだ。言葉とは裏腹に、秋実さんは曇りのない笑顔を浮かべていた。
「……どうしたの、急に?」
私が尋ねるも、私の声が聞こえているのかいないのか、彼女は何も言わず黙って歩き続けていた。
しょうがない人だ。
私はなんとも言えない気持ちで秋実さんの横顔を見ながら、今までの彼女の不可解な行動や言動を振り返っていた。
秋実さんはなぜ、こんなに遠い場所にある実家に私を連れてきたのか。
新たな情報をもとに一連の出来事を違う視点で見つめなおしてみると、ハチャメチャにしか見えなかったそれには彼女なりの事情があったことが見えてきた。
単にレモンの収穫の仕事をサボりたくて代わりの作業要員が必要だったから、というのも理由の一つではあろう。
そして、もう一つの理由は――
先ほどの貝久保さんとの話で粗方察しがついてしまったので、私はそれ以上そのことについて秋実さんには聞かないことにした。
その後、私たちは帰宅途中の高校生みたく毒にも薬にもならないお喋りに興じた。
「そういや『まーっさ』って何の意味なの?」
「かなり、て意味ざい。『まっさ』、『まーさ』、『まーっさ』ん順にレベルが上がる」
「なんじゃそりゃ」
しばらく話している内、秋実さんは私に釘をさすようにこんなことを言った。
「
私は猫じゃない、とはどういう意味だろう。
「……どういうこと?」
私は彼女の気持ちなどつゆ知らず、笑い交じりに聞き返した。
この時、水平線に沈みゆく赤い夕陽に照らし出されて、表情の消えた彼女の顔が一層はっきりと浮かび上がった。
「すぐ分かるっぱ」
一日で全てのレモンを収穫できるわけもなく、余ったものはまた後日、ということで今日はお開きということになった。
その日の夜も木中家の親戚たちは居間で酒盛りをしていたが、秋実さんは昨夜のように居間に長居はせず、食事を終えるとすぐに自分の部屋に戻ってしまった。
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