第11話 トマトに砂糖?

 次の日の朝、私が秋実さんに宇宙から撮影した地球の映像を見せられ「何言うちゅんざ、きっちゃん。地球は型ざ」と説得されるという不安な夢から目を覚ますと、自分がいまだ奈津崎県にいることに気づいた。

 この数日キッカイなことばかり続いて何が起こってもおかしくないと身構えていたせいか、夢の中とはいえ秋実さんの言うことを本気で信じかけてしまった。

 私は寝ぼけ眼で自分の両手を見たが、そこには虫の足でも獣の肉球でもないちゃんとした人間の手が生えていた。

 よかった。

 私はひとまず落ち着きを取り戻した。


 この世界のはおかしい。私は初め、そう信じて疑わなかった。

 重陽節ちゅーやーせつが終わり、木中家がいつもの静けさを取り戻したこの日――

 秋実さんがいないかと思って居間に行くと、頼んでもいないのに私の分の朝食が用意されていた。私はとりあえずお母さんにお礼を言って席に着き、目玉焼きに醤油をかけようとした。しかしその瞬間、周りの人が一斉に私の皿を凝視した。

「……なぜ醤油しゃーゆかける?」

 志明しあきお父さんが目を丸くしながらそう言った。この日の朝食も目玉焼きが出て、私はで何も考えずに醤油を手に取っていた。

 何かしてはいけないことをしたような気分になって、私は反論した。

「いや、目玉焼きって……、普通は醤油かけません?」

 いつも何にでもドバドバと醤油をかけてしまっている私は、「普通」という部分を強調した。

 すると隣で食事していた益良雄お爺さんが顔を顰めながら、テーブルの上に置いてあった塩コショウの瓶を持ち上げた。

「まあ、普通はくれざな」

 どうやらこの一家は目玉焼きには塩派らしい。

 確かにそういう人もいるだろうけど、別にいいじゃないか。

 私は彼らの忠告を無視し、そのまま醤油をかけて目玉焼きを食べ始めた。そして食事を続けながら、姿を見せない秋実さんのことについて尋ねた。

「そう言えば、秋実さんはいますか?」

 すると今度は秋実さんのご両親が眉を顰めた。

 なぜこの人たちは私のやることなすことに一々おかしな反応をするのだろう。

 先ほどから変な空気なのだが、いかんせん原因が分からない。居候はさっさと出ていけということなら仕方ないが、どうもそれとも違う気がする。

 家族がこんな感じでは、秋実さんもさぞ苦しんできただろう。

 私が勝手な決めつけでそんなことを思っていると、秋実さんがあくびをしながら居間に入ってきた。

 私は朝食を急いでかき込み、筋肉痛の足を引きずりながら彼女のもとへと走った。昨日の夕方に話したのを境にずっとだんまりだったので、心配だったのだった。

「おはよう、昨日はよく眠れた?」

 私が笑顔で挨拶するも、秋実さんは無言で首を縦に振った。彼女は何だか気が抜けたような表情で、冷蔵庫からトマトを取り出した。適当に話題を作ろうと私は話し続けた。

「これ、おいしそうだね」

 彼女は眠そうに眼をこすりながら静かに答えた。

「……家んうらん畑でれてんざ」

 そういえば昨日、畑から戻ってくるときに野菜を入れたビニール袋を持ってたっけ。

「頂いてもいい?」

 私が遠慮せずそう言うと秋実さんは、

「うん……、良せ」

 と言いながら、さっそくトマトを切ってきれいに皿に盛った。そしてなんとその上に、台所に置いてあった真っ白なグラニュー糖をたっぷりとかけた。

 私は思わずたじろいだ。

「ゲッ、トマトに砂糖かけるの? そんなことする、普通?」

 今までトマトに砂糖をかける人なんて見たことがなかったので、うっかりそう口走ってしまったのだった。

 しかしそれを聞いて、秋実さんは少し怒ったように私を睨んだ。

昨日きんぬからやかまっせな。『』て、

 彼女はそう言ってひょいと皿を両手で持ち上げると、そのまま素手で食べ始めた。

「いや、それでもトマトに砂糖はヘン――」

 そこまで言いかけて、私はあることに気づいた。

 私はさっき人に言われて嫌だったこととまさに同じことを、人に対してやってしまったのではないか。

 秋実さんはただ、長年の食生活を否定されて感情的になっただけなのかもしれない。だが彼女の何気ないこの一言が、ほんの少しだけ私を客観的にした。

 この異常な世界で私だけが正常なのだとばかり思ってきたが、のだ、と。

 コペルニクス的転回に至って、私は秋実さんに何も言い返せなくなってしまった。


 結局あの後、秋実さんとは一言も口を聞かずに客間に戻った私は、ずっと彼女のことについて考えていた。

 初めて秋実さんとケンカしてしまった。

 世の中には卵焼きの味付けが塩か砂糖で離婚する夫婦もいると聞くが、トマトに砂糖をかけるのを認めない私もまたそんな人たちと同じぐらい狭量だった。思えば、ずっと一緒員暮らしてきた家族の代わりに私が理解者になろうなどただの傲慢だった。

 しんとした部屋の中で、私は布団に横になったまま食い入るように木中家の天井を見つめていた。

 三十年間、彼女はこの家で何を思い、何を感じて生きてきたのだろう。

 昨日色々な人から又聞きした情報から推察するに、今の秋実さんの辛さは察するに余りある。

 それでも、全く無関係な俺をそこに巻き込むなんて、随分と勝手だよな。

 そう思いながらも、そんな身勝手な彼女によって救われてしまった私は、とりあえずそこには感謝して前に踏み出そうとした。

 そのすぐ後、秋実さんにを言われるまでは。


 日中人の家でずっとじっとしているのも居心地が悪いし、とりあえず今日は外に出よう。

 私は急いでスーツケースに服やら何やらを全て詰めなおした。やがて荷物の支度を終え部屋を出た私は、廊下を歩きながらこれからのことを考えた。

 いつまでも木中家に住み続けるわけにはいかない。まずは仕事を探して、アパートを借りて、しばらく働いてお金を貯めよう。

 常識的な状況下では完璧なプランだった。しかし、金は働けば得られるとして、まずそれら全てを実行するために必要な身分証明書が何もないことに気づいた。

 免許証はおろか、学歴も、職歴も、今まで取得した資格も無効だとしたら、これから先かなりの困難が予想される。そもそも自分が日本人であることも証明できない状態で奈津崎県に「転入」できるのだろうか。

 犯罪者でも就労しているぐらいだし、それぐらい力技でなんとかするか。そう変に意気込んで玄関に向かったところを私は秋実さんに捕まった。

「きっちゃーん」

 背後から声が聞こえて振り返ると、そこには秋実さんが立っていた。彼女もちょうどどこかへ出かけようとしていたのか、今日はきちんと化粧もしてスカートを履いていた。

 彼女は持ってきた大きなゴミ袋を一旦玄関に置くと、まるで先ほどの出来事が嘘のように普通に笑顔で話しかけてきた。

「うわぁ、準備万端ね。づけ行くんざ?」

 秋実さんは私が担いで持ってきたスーツケースをしげしげと見つめて、楽しそうにそんなことを聞いてきた。

 この家から出て行こうとしている、とは言えず私は無言で俯いた。

「……何ね、出かけるんぜぁらんけ?」

 彼女は焦ったように腕時計で時刻を確認しながら、私の返事を急かした。

「うん、そうだけど……」

「なら車出すげん、停車場まで行かー」

 彼女は半ば強引に自分の車に乗せて行こうとした。

「ちっくし待ってな、今からに行くげん」

 彼女はそう言ってその場に座り、大急ぎで黒い靴を履き始めた。

 秋実さんが出かける前に謝っておこう。

 私は一度咳払いをしてから、彼女に切り出した。

「……さっきはごめん」

「あ?」

 唐突に謝られて驚いたのか、秋実さんは一瞬手を止めて、鳩が豆鉄砲を食ったような顔でこちらを振り向いた。

「今まで秋実さんのこと、『変だ』とか『おかしい』とかいっぱい言っちゃってごめん! そもそも他人の家に居座っておこぼれをもらっている身の癖に、その家の食事のことについてとやかく言う資格なんてないよね」

 私は今までの自分を恥じた。今まで奈津崎県がおかしいとばかり考えてきたが、自分が彼らにどう映っているか、という視点が完全に欠けていた。

 しかし秋実さんはと言えば。

「何ね、別に謝らんで良せて! なあ支障ししゃーなせ」

 私の大真面目な表情がおかしかったのか、彼女は破顔して私の肩をポンポン、と叩いた。

 気にしていたのは私だけだったのだろうか。

 全く気にしていない様子の秋実さんに、私は少しほっとした。秋実さんは笑いながら先ほどの質問に戻った。

「で、実際づけ行くんざ?」

「……決まってないです。ちょっと外の空気を吸おうかと」

 すると彼女は膨れっ面で私を小突いた。

「さっきはたまげっけ。いきなし出て行かーてすて、何ざてうむうて心配すっけ」

 すみませんでした。

 私は再び反省した。

「そういや、秋実さんこそ今日はどこに行くの? 仕事?」

ちがちが、別ん用」

「別の用?」

 すると秋実さんは少し考えていたが、何かを閃いたようにポンと手を叩いた。そして彼女は「ちょっとスーパーにでも行かない?」というぐらいの軽いノリでこんなことを口にしたのである。

「なんなら、今からする?」

 真っ赤なリップから飛び出した突然のキラー・ワード。

 あっけにとられる私をよそに、秋実さんはキーホルダーについた車の鍵をジャラジャラと鳴らして意味深に微笑んだ。

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