第9話 PB&J
レモンの収穫作業が始まり、木中家の人々は傾斜地の上に段々畑になったレモン農園のあちこちに散らばっていった。
準備体操の後、秋実さんは私を崎池さんのところに連れて行くと、「全部彼に聞いて。すれぜぁ、また」とだけ言い残しどこかへ姿をくらましてしまった。
そんな訳で私は一旦彼女とは別れ、始め崎池さんに連れられて色々な場所を回っていた。崎池さんはとても気さくな方で、新規就農者の私にも実の切り取り方やハサミの使い方など細かい作業内容を丁寧に説明してくれた。
農園内のとある一角に差し掛かった時、崎池さんは木に実っていた一際黄色いレモンをもぎ取ると、ナイフで半分に切って中身を確認した。
すると、果肉の部分の水分が抜けてスカスカになってしまっているのが分かった。そしてそれを見た彼が放った一言がこれである。
「あいあい、カプカプざね……」
宮沢賢治か。
脳内で思わず突っ込みを入れてしまった。すると、近くで作業していた秋実さんの叔父さんの
「くったんカプカプぜぁ、出荷
などと言い出した。
奈津崎弁のオノマトペ独特すぎだろ。
そんなことを考えていると、崎池さんは私にまた微笑みかけた。
「ああ、カプッちゅるヤツは捨って。
彼はそう言って、まだ少し緑色の実の方を収穫して採集コンテナに入れて行った。
方言のせいではっきり分からないが、要するに「もう黄色くなった実は店頭に並ぶ頃にはダメになってしまう」ということだろうか。
私は崎池さんの指示に従い、完全に黄色く熟してしまった実は無視するようにした。崎池さんは私の仕事がなんとか様になってきたのを見届けると、「手袋履いてやりな」と言って私に軍手を手渡し、風のように去っていった。
よーし、がんばろう。
私は彼からもらった軍手をして今一度気合を入れ、本格的に取り組むことにした。
「秋実さんたら、こんなに可愛いアタシを置いてどこに行ってしまったのかしら? まったく、いつもこんな悪い男ばっかり引き当てて、アタシってば本当にかわいそう……。きっと男運がないのね」
あれから一時間。私はブツブツとそんな独り言を言いつつも収穫を続けていた。あまりにも作業が単調過ぎて、恋する乙女になり切って悲劇のヒロインを演じるぐらいしかすることがなかった。しかしたった一時間では当然終わりは見えない。
「俺、なんで生まれてきたんだろうな……」
並行世界に飛ばされたと思ったら、ひたすらレモン狩りをさせられていた。
右手にハサミ、左手でレモンの実をつかみながら、私は神が与えたこの試練の意味を自分なりに必死に考えた。
人生の意義。今まで数多くの哲学者や文学者が結論を出せなかった命題に、私はついに一つの答えを出そうとしていた。
「そうか、分かったぞ……。私は奈津崎県でレモン狩りをするために生まれてきたんだ!」
私が宇宙の真理に到達しかけている一方で、休日だというのに親戚の農園を手伝いに来る立派な崎池さんは、その後も農園内を行ったり来たりして精力的に応援に駆け付けていた。
そんな彼の様子を遠目に眺めて、私は心からの賞賛を漏らした。
「崎池さん体力半端ないよな……。さっきの準備体操もキレキレだったし……」
すると、近くで一緒に作業していた
「
やりそうだな、彼なら。
容易にその図が想像できて、私はクスっと笑った。
「そういえば、あのレモン頭のヒーローって何て名前でしたっけ?」
すると、私がコンテナに入れたレモンを選別していた佐部くんが元気よく返事をした。
「『レモン戦士シュワッチャー』ざす!」
佐部くんは「崎池マーケッツ」で働いているバイトの男の子で、この中で一番若かった。
「ああ、そうそう、『シュワッチャー』。中々ユニークですよね」
よそ者なのでとりあえず褒めておいたのだが、地元民からは不満の声が上がった。
「あんレモン頭、
佐部くんが笑い交じりにそう言うのを聞いて
「ありゃ、アメリカん有名なカンデーんカラクターん
待て待て、
私は彼の独特な英語の発音に突っ込んだ。
「『キャンディー』の『キャラクター』ですか?」
すると隣にいた佐部君が自信満々に発音してみせた。
「『ケンディ』ん『ケラクター』ざすて!」
なんか微妙におかしいので、もう一度とトライ。
「『キャンディ』の『キャラクター』ですよね?」
すると
「……『ケァンデー』ん『ケァラクター』ざっぱ?」
なんか一周回って発音がよくなってきたぞ。
私たちが作業の手を止めて雑談に興じていると、木々の間を潜り抜けて眼鏡をかけた背の高い若い男性がこちらの方へ歩いてきた。彼は私や秋実さんと同い年ぐらいと見え、先ほどの崎池さんとは違って痩せていて色白だった。
この人、昨日の飲み会にはいなかったよな。
誰だろうと思って彼の方をじっと見つめていると、彼も私の視線に気づいたようでレモンの入ったコンテナを抱えたまま立ち止まった。
レモンの木々が作り出した迷路にとり囲まれて、私たち二人は対峙していた。
「……」
彼は何も言わず、ただ無表情で私の顔を食い入るように見つめていた。その冷たい視線に射抜かれて、私の体はしばし動く能力を失った。
敵意なのか、憎しみなのか、はたまた悲しみなのか――眼鏡越しに見える二つの茶色い瞳に映るそれが何なのか、あの時の私はまだ分からなかった。
気がつくと、背後からは
ほどなくして、コンテナが重たくなってきたのか彼は無言で立ち去った。彼が完全に行ってしまった後で、私は
「……あれ、誰ですか?」
すると
「……
「あんちゃ?」
私が聞き返すと、佐部くんが代わりに答えてくれた。
「『長男』ん意味ざす」
そういえば昨日、麗華おばさんの息子の「サカシくん」は来ていなかったっけ。
名前が少し変わっていたので、彼のことは私も一応覚えていた。気になった私はもう少し詳しく聞いてみた。
「
「
私は話を整理してみた。
「秋実さんのお父さんが
すると一瞬、
「
なるほど。
私はようやくこの複雑な家系図を理解した。
「へえ、そうだったんですね」
私はもう一度
田舎だし親戚関係が密なのだろう。
その時の私は、それ以上サカシくんについて特に深く考えることもなかった。
木中レモンファームに昼が来た。
遠くに海を臨む見晴らしのいい高台の上にレジャーシートを敷いて、私は木中家の人たちとワイワイ仲良く昼食をとっていた。
きつい肉体労働の後の飯は美味く、秋の涼しい気候も相まって気分はとても爽快なのだが、話しかけてくる年配の方々の訛りが強すぎて言っている内容の半分ぐらいしか理解できない。何分彼らは皆フレンドリーで、突如彗星のごとく現れた部外者の私にもとてもよくしてくれたのだが、それが
私がおかずをつついていると、秋実さんのお母さんが持ってきたサンドイッチを差し出した。
「はい、ピー・ビー・アンヅ・ゼイ」
お母さんは笑顔で話しかけてきたが、私は思わず聞き返した。
「ピー・ビー・アンド・ジェー、ですか? っていうか、このサンドイッチってそういう名前なんですか?」
この時、私は「PB&J」という言葉を初めて聞いた。
すると、隣で昨日の残りもののぶらら揚げを食べていた秋実さんがこちらを振り向いた。
「ピーナツバター・エンヅ・ヂェリー・センウィッチ。アメリカんセンウィッチざ。知らんなん?」
彼女は口元についた食べカスを親指で拭きながら、怪訝な顔で私を見つめた。
「いや、知ってるけど、いわゆるアメリカンなピーナツバターって日本じゃあんまり一般的じゃないような……」
私は頑張って記憶を掘り起こしたが、少なくとも私の知っている日本では一般的な食べ物ではない気がした。
すると食べかけのPB&Jを片手に、さっきまで一緒に作業していた
「昔、
「グジャラート州など肉体ラードシチュー
私がまたもや頓珍漢なことを言うと、親戚一同は笑いの渦に巻き込まれた。
なんだかちょっとバカにされている気分だ。
お母さんからもらったPB&Jにかぶりつきながら、私はよくよく考えてみた。そしてさっきの一連の会話をもう一度思い出している内、とある法則に気づいた。
「そういや、昨日『ズース』って言ってましたけど、あれって『ジュース』の意味ですか?」
するとお母さんはうんうん、と頷いた。
「さーざ、ウレンヂヅース」
奥さんと一緒にお弁当を食べていた崎池さんがこんなことを言って笑った。
「ぢっちゃん衆は『J』ん
これを聞いて、私は少し考えてみた。
「『ジャ行』が『ザ行』になるのかな……。さっきのは、『オレンジジュース』ですよね?」
「さーゆー
「そういえば、『お』と『う』も同じ発音になりますよね。でも、それだと『
すると、食後の昼寝をしていた秋実さんのお父さんが急に話に参加してきた。
「『くつ』つ『くつっちゃ』て言や
彼は横になったままそう言うと、つまようじで歯の間をつつきだした。ついでだったので、私は矢継ぎ早に類題を出してみた。
「『
「『つき』つ『うつきさん』」
「『
「『ゆめっちゃ』つ『ゆめ』」
「『
「『きゅー』つ『くー』」
「『お前』と『うまい』は?」
「『うめえ』つ『うませ』」
「『遅い』と『薄い』は?」
「『うすせ』つ『なるせ』ざっぱ」
「な、なるほど……」
トンチのような方法であらゆる同音異義語問題を回避しようとする奈津崎弁に感心していると突然、頭にタオルを巻いた一際肌の黒いお爺さんが乱入してきた。
「やいやい、くりゃ噂ん
彼は私の顔を見るなり大声を出し、うりうり、と私を肘で小突いた。
「くん
彼はそう言って私の横に腰かけると、歯の抜けた口を大きく開けてニヤニヤと笑った。彼は初対面だというのに非常に馴れ馴れしかった。
この日に焼けたお爺さんは確か、昨日部屋の隅で佐部くんと一緒に飲んでた人だ。
彼は先ほど「あっぷざ、あっぷざ」と謎の呪文を唱えながら離席し、しばらく戻ってこなかった。一体彼は一人急いでどこに行っていたのだろう。
「貝久保さん……、でしたっけ?」
私はなんとか彼の名前を思い出すことができた。
「さーざ。
貝久保さんは私に向かって飛び切りの笑顔でウインクすると、誇らしげに宣言した。
この貝久保さん、実に強烈なキャラクターだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます