第8話 津州弁準備体操

 朝起きたら元の世界に戻っているかと思ったが、ぼんやりとした意識の中嗅ぎ慣れぬ匂いを感じて私は目を覚ました。

 私はいやにきれいな布団をギュッと握りしめて、ぼうっと天井の木目を見つめていた。

 やはりこれは夢でも幻覚でもないらしい。

「はぁ……」

 本当に違う世界に来てしまったという実感が湧いてきて、私は深くため息をついた。

 それにしても、どうも他人の部屋というのは落ち着かない。

 最後に旅行しに行ってから五年ほど経って、思えば自分のアパート以外の場所で寝泊まりしたのも久しぶりだった。

 ごろん、と寝返りを打つと視界の端に玄関から回収したスーツケースがあるのが目に入った。

 このスーツケースも買ってから使ったのは今回で二度目だった。そういや、五年前の旅行の初日も朝寝坊して、危うく飛行機に乗り遅れたっけ。

 しかしまさか、二度目の旅行がこんなことになるとは夢にも思っていなかった。この異世界旅行にお供してくれる元の世界の知人が彼だけとは、なんとも寂しいものだ。

 だが。


 朝八時、私は再び居間に行ってみた。ぼさぼさの頭を手ぐしで直しながら襖を開けると、まず畳の上でイビキをかいて寝ているおじさんたちが見えた。おそらく昨日の夜、あのままその場で寝てしまったのだろう。

 そして、部屋の隅に置かれた仏壇の前――彼女は座布団に座り、遺影の前で手を合わせていた。

 秋実さんは変わらずそこにいた。その事実だけで、私はとても安心した。

 そう――今私は見知らぬ土地にいるが、一人ではないのである。

 彼女はしばらく目を閉じてじっとしていたが、ほどなくして立ち上がった。そして同時に私の存在に気づき、こちらを振り向いて笑顔で話しかけてきた。

「ああ、まーきてけ?」

 今朝の秋実さんはTシャツにジーパンというラフな格好で、髪も結んでいなかった。秋実さんはジーパンのポケットに手を突っ込んで、下した長い髪を揺らしながらゆっくりとこちらへ歩いてきた。

 彼女は私の目の前で立ち止まって、長いまつ毛をパチパチさせながら私の顔を覗き込んだ。ふわり、と波打つ髪からほんのりとシャンプーのようないい香りが漂ってくる。

 この圧倒的存在感。

 女子という未知の生物を前にして、私はひどく動揺した。

「何ね、面白うむっしつらすて」

 私がよほど赤面していたのか、秋実さんはそう言ってフッ、と笑った。

「いや、別に……」

 私は彼女の一挙一動に振り回されてしまっている自分に気づいた。

 緊張をごまかそうと、私は仏壇の方に目をやって尋ねた。

「……聞いていいか分からないけど、どなた?」

 すると彼女は僅かに俯き、静かに微笑んで答えた。

「ばっちゃ。大分前亡ぁなって」

 彼女はそう言って遺影の前に置かれた小さな花瓶を指さした。そこには大輪の黄色い菊が溢れんばかりに刺さっていた。

「くん菊、きれいざっぱ? 今日きゅー重陽節ちゅーやーせつざげん」

 そういえば今日、十月七日は奈津崎県民にとっては文化的に大切な日らしい。


 私たち二人が台所に来たとき、もうすでに秋実さんのお母さんの能美さんは朝食の支度を始めていた。

「朝、食うけ?」

 お母さんはフライパンでベーコンエッグを焼きながら、首だけをこちらに向けて話しかけた。

 お母さんは秋実さんと背格好も顔もそっくりだったが、黒髪でパーマをかけていた。年を感じさせない快活な女性、というのが第一印象だった。

「今朝はそんなにお腹減ってないんで、大丈夫です。後で適当に食べますんで」

 さすがに二日連続でごちそうになると悪いかと思って、私は遠慮した。すると秋実さんが心配そうに聞いてきた。

みすぎてけ? ?」

 私はここで彼女の日本語に微妙な違和感を覚えた。

「……薬は『飲む』ものじゃない?」

 すると秋実さんが少し嫌そうな顔をしたので、私は先ほどの質問に戻った。

「いや、そうじゃないよ。昨日結構食べたから――」 

 あまり食欲がなかったが、このまま遠慮し続けるのもよくないかと思い、私はとりあえず何か適当に口にすることにした。

「じゃあ、まあ……、納豆とかありますか?」

 特に好きではないが、あまりヘビーでないものにしよう。そう思った私は納豆を所望してみた。

 だが二人は私の言葉を聞くなり異口同音に聞き返してきた。

? 何すれ?」

 秋実さんは冷蔵庫の扉を開けたまま、眉間に皺を寄せて私の方を振り返った。念のため、私は確認してみた。

「……もしかして『納豆』って何か知りませんか?」

 お母さんはフライパンの柄を握りしめたまま首を傾げた。

「知らん。外国ぐぇーくくん食いむんけ?」

 そんな奇妙な食べ物まるで見たことも聞いたこともないという口ぶりだった。そして秋実さんも、アメリカ人のように大げさに両腕を広げて「知りません」と言わんばかりのジェスチャーをした。

 私はできる限り詳細に納豆を描写した。

「ほら、大豆を発酵させた食べ物ですよ。粘り気があって、なんかこう、腐ってるみたいなすごく臭い匂いがする……」

 すると二人は大層不思議そうな表情でお互いの顔を見合わせ、口々に、

「すなんが、見てつきねー」

「なぜすったんっせむん食うんざ?」

 と言った。

「そんな……、納豆がないなんて……。いや、待て。これはこれでいいことなのかも」

 この時私はなぜか、少しうれしいような、それでいて寂しいような複雑な気持ちになった。

 突然だが一つ、昔話をする。

 小学生の頃、私は納豆が大嫌いだった。幼少期、歯医者に次いで私の人生最大の敵といっても過言ではなかったあの粘つく茶色い塊――両親が買ってきて食卓に出しても、私は頑として箸をつけることはなかった。

 しかし、あれは忘れもしない小学校五年生の時。給食を残すことを絶対に許してくれなかった担任の高橋先生により何度も無理やり納豆を食べさせられた結果、私はめでたく納豆が食べられるようになったのだった。

 あの洗礼から二十年。私はいつの間にか自ら積極的に納豆を食べるようになり、今では無意識に手に取る朝食おかずはと言えば納豆という状態にまでなってしまっていた。

「知らず知らずの内に、私は日本社会の同調圧力に屈してしまっていた……。でも、もうこれからは納豆を食べなくていいんだ。!」

 私が拳を宙に振り上げて一人高らかに納豆解放宣言をしていると、秋実さんが冷めた視線を向けてきた。

「……何すちゅんざ、きっちゃん」

 皆の分の朝食の準備をしているのか、秋実さんは大量のパンを切って調理台の上にせっせと並べていた。すると隣にいたお母さんが皿に盛った朝食を私に差し出してきた。

「うい、くれがうめえさんけ」

 話聞いてなかったよね、と思いながらも、私はしぶしぶお皿を受け取って座敷の席に移動した。

い。今日きゅーは気張ってくれにゃんね」

 お母さんはそう言って台所に戻ると、秋実さんが並べたパンにピーナッツバターとイチゴジャムを塗りたくる作業に戻った。その手さばきはまるで工場のライン工で、瞬く間に何十個ものサンドイッチが量産されていった。

 しかし、こんなにたくさんサンドイッチを作るなんて、今日は皆で遠足にでも行くのだろうか。

 私がカリカリのベーコンを噛みしめながらそんなことを疑問に思っていると、寝ぼけ眼のおじさんたちがゾンビのように起き上がってきた。

「ん? はーけ?」


 レモンの木が生い茂る小高い丘の上で、作業着を着たおじさん方が整列して並んでいた。

 この日はよく晴れて太陽が燦々と輝いていたが、十月ともなって気温はそこまで高くなかった。

 ともすれば絶好のピクニック日和、のはずだった。

「えー、今日きゅーはわざわざ木中レンファームん為集まっていただき、まっくつありがたーありゃす。何分、全員が集まれる日が祝日しゅくにちしかさすげん……」

 私は欠伸をしながら、志明しあきお父さんが木中家一同の前で朝礼の挨拶をするのを聞いていた。この日木中家のレモン畑に集結していたのは、大体は昨日酒盛りに参加していた面々だった。

 秋の心地よい風を感じながら、私はどんよりした気分でその場に立ち尽くしていた。

祝日しゅくじつまで働くとか、ブラック企業かよ……」

 すると隣に立っていた秋実さんが答えた。

「収穫はげん、みんなで手伝うんざ」

 彼女は全身の肌という肌を布で覆った上で、「あー、暑せ」と言いながら水筒のお茶を飲んでいた。

 朝食の後、お弁当の準備が終わった秋実さんは日除けの布で覆われた麦わら帽子を被り、手の甲に日焼け止めクリームを塗り始めた。さながら防護服のようないで立ちに私は苦笑して、

「徹底した日焼け対策ですね。今日はどちらへ?」

 と聞いた。そうしたら「うめえ来るんざい」と言われて無理やりここまで引っ張ってこられてしまったのだった。

 聞けば、木中家は代々レモン農家をしており、毎年十月になると親戚総出で早生わせレモンの収穫をするらしい。

 そして私はとうとう真実に気づいた。

「……まさかとは思うけど、ここまで俺を連れてきたのってのため?」

 私は低い声で毒づいた。しかし秋実さんは悪びれもせず正直に答えた。

「うん。人数にんずうーうぇはーがええっぱ?」

 彼女はニコッと笑って私を励ました。その瞬間、私の頭の中で今まで起きた様々な出来事がまるでパズルのピースがはまっていくように一つの意味をなした。

 生まれて初めてナンパされたと思ったら、実は繁忙期の農家でボランティアをさせられただけだったとは。

 都市で子供が人さらいに遭って田舎の農村に売り飛ばされ強制労働させられる図が思い浮び、私は背筋が寒くなった。

「そんな……、年に一度の秋祭りの日に小学校の幼馴染と運命の再会を果たしたんじゃ……」

 何か言ってやろうと思ったが、彼女はたった一言で私の動きを封じた。

?」

 彼女の天使のような笑顔の裏に、私は底知れぬ悪意を見た。

 せっかくバカンスに来たというのにまた働く羽目になってしまうなんて、これではあちらにいた時とやっていることが大差ない。

 社畜としての運命を自覚し悲嘆に暮れていると、話が終わった志明しあきお父さんが地面に置いてあった大きなラジカセのスイッチを入れた。

 するとスピーカーからファンファーレが流れ、大勢の人が拍手する音が聞こえた。

「『津州しんしゅうべん準備ずんび体操てーさー第一でーいちぃーっ!』」

 号令の声と同時にラジオ体操のような陽気な音楽が流れだし、整列していた木中家親戚一同は間隔を開けて散らばった。スピーカーが古いのかCDが傷ついているのか、その曲は時折音が飛んだり音割れしたりしていた。

「さぁ、皆さん大好でーすき、津州しんしゅうべん準備ずんび体操てーさーん時間がやって参りゃすて!」

 お父さんは騒がしい音楽に負けないように声を張り上げ、その場にいた全員に呼びかけた。

「『津州弁しんしゅうべん準備体操』? なんじゃそりゃ?」

 私が一人だけ状況が分からず固まっていると、秋実さんが一旦私の所に戻って来てわざわざ説明してくれた。

「きっちゃぬゎ知らんぱ? くりゃ『』ん津州弁しんしゅうべん版ざい。小学校ん体育ん授業で習わんでけ?」

 また知らない固有名詞が出てきて私は反応に困った。

「いや、だから『』って何ですか?」

 この日本でいうラジオ体操だろうか。

 私がますます困惑していると、秋実さんは「きっちゃぬゎなぁん知らんな」と大げさにため息を漏らした。

「まぁ、いちんむんむ、作業する前にみんなで準備体操するんざ。はい、にやり!」

 彼女はそう言って私の背中をポン、と軽く叩き、軽快に走り去った。

 そうこうしている内に、ラジカセから号令が鳴り響いた。

「『いちにーさんしー! ぐーるくしちはち!』」

 しかし。

 開始三十秒も経たない内に私は難題に直面した。

「訛りすぎてるせいで数字以外聞き取れないぞ……」

 「津州弁準備体操」は音質が悪いのに加え、指示がことごとく奈津崎弁なので私には理解不能だった。

「『はい、!』」

 よしよし、これぐらいなら分かる。

「『ひざっちゃ』は『膝』のことだよね……」

 私は独り言を言いながら動きを確かめていた。

「『四体してーめーぃ!』」

 ギリギリ「前に」だけは聞き取れたが、肝心の動かすべき体の部位がどこなのか分からない。

、って何だ?」

 仕方なく、少し離れたところで前屈運動をしていた秋実さんに臨時の通訳をお願いした。

「『四体したい』ざい、全身。見りゃ分かるっぱ?」

 彼女はそう叫び返して、周りを指さした。

 それもそうだった。

 私は改めて周囲を見回した。何度もやっているのか彼らは皆振付を暗記しているようで、号令に合わせて老いも若きも器用に体を動かしていた。

 私はなんとか見様見真似で彼らの動きを真似しようとした。が、今度は体が硬くて上手く腰が曲がらない。

 すると、遠くの方から昨日の崎池さんが大きく手を振ってきた。

「佐藤さーん、うれ見て参考にし! 気張って!」

 崎池さんは溢れる爽やかスマイルでサムズアップすると、軽やかに体を動かし始めた。もう秋だというのに彼はタンクトップで短パンという、いかにも高校時代陸上部でした、というような服装だった。

 崎池さん元気だなあ。

 年齢的には彼と私は大差ないはずだが、私は絶望的な体力差を感じた。これが普段の心がけの違い、か。


 その後結局、私は奈津崎弁に苦しめられながら無事に奇妙な踊りを続け、木中家の皆さんの前で無様な姿をさらした。

 もう少し外地っ人よそものに優しい言葉で喋ってくれ。

 とにかく通訳がいる体操なんて、私はもう二度とやりたくない。


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