第7話 青唐辛子醤油

 現在、私は木中家の親戚一同に囲まれている。よりにもよって大勢の人が飲み食いをしている机の真ん中の席に座らされてしまい、今の私は文字通り袋の鼠だった。

 どこの惑星の公用語なのか分からない方言が飛び交う中、私は会話についていけず完全に置いてきぼりにされていた。

「ざっぱ?」

「ざっぱ! ざっぱ!」

 木中家一同は皆声が大きく、まるでケンカでもするように唾を飛ばしながらお喋りに興じ、その傍らで鳥刺しを箸でつついていた。

 ここは日本なのか、それともやはり日本ではないのか。

「ねえ……、あれ大丈夫なの?」

 私は皿に盛りつけられた刺身を眺めながら秋実さんに尋ねた。秋実さんは不思議そうに聞き返した。

「何が?」

「アレ、だよね」

 それはどう見てもただの生肉だった。私は以前、日本のどこかの地方では鶏肉の刺身を食べる風習があるという話を聞いたことがあった。しかし実際こうして目の前に出されると、恐ろしくて食べる気がしない。思えば、魚なら生でも全く抵抗がないのに不思議なものだ。

「うん、刺身ざい。今日きゅーは豪華ざ、魚あって」

 秋実さんは平気な顔で食事を続けていた。

「いや、そういうことじゃなくて、は死ぬでしょ。カンピロバクター怖くないの?」

 命が惜しかった私は奈津崎県の伝統文化を否定した。しかし地元民たちは私が血相を変えて止めるのを見てひどく面白がった。

「ハハッ、すったんくわがらんぜん死なんて!」

 秋実さんのお父さんは見せつけるように私の目の前で生肉を口に放り込んだ。

「見てみ、支障ししゃーせ!」

 お父さんはあっという間に焼酎で流し込むと、得意げにそう言った。

 命知らずな奴らめ。

 すると、隣で自分の取り分を皿によそっていた秋実さんが見かねて声を掛けた。

「まあ、生ぜん食えるやー処理されちゅるげん、ふんに問題ねー。イヤなら止め」

 秋実さんは私を安心させようとしてくれた。

「……分かりました」

 仕方なく私は肉はやめて、お刺身を食べることにした。しかし何の気なしに醤油皿に入っていた黒い液体に刺身をつけ、口に頬張った瞬間。

「辛っ、何これ?」

 喉に噛みつくような強い刺激に、私は軽く咳き込んで口を手で押さえた。

辛子からし醤油じゃーゆ胡椒くしゅうが入っちゅんざに」

胡椒こしょう? わさびじゃなくて?」

 なんで醤油にブラックペッパーを入れるんだ。

 私は顔を思い切り顰めて秋生さんの方を見たが、彼女はきょとんとしていた。

「高野県ぬゎ辛子からし入れんけ?」

「カラシ? マスタードのこと?」

 私はもう一度醤油皿を見たが、黄色いものが混じっているようには見えない。

 すると秋実さんは笑いながらこう言った。

ちがちが、『青唐辛子あーたーがらし』ざい」

青唐辛子あおとうがらしか」

 最初からそうやって言えばいいのに。

「っていうか、なんでお刺身に青唐辛子醤油つけるの!?」

 私は刺身をわさび醤油で食べようとしない奈津崎県民が同じ日本人であると認めたくなかった。

 しかし、秋実さん何事もなかったかのように普通に食事を続けていた。

「えー、奈津崎ぜぁ普通ざい? うん、うませ!」

 秋実さんは例の醤油をつけた刺身を口に運んで、いかにもおいしそうに顔を綻ばせた。

 辛いものは苦手だったので、結局私は台所の棚に眠っていたレモン醤油で刺身を食べる羽目になってしまった。


 木中家の方々は突然来た私をとても歓迎してくれた。これを食え、あれを食えと色々残り物を押しつけられありがた迷惑ではあったが、この日私は久しぶりに満腹になるまで食べてしまった。

 ここで、私が今回お邪魔した木中家の晩ご飯のお品書きを紹介しよう。この日の夜、木中家の食卓に上っていたものはどれもユニークなものばかりだった。

 まずメインディッシュの刺身だが、鳥刺し以外にはサバとムツ、とても食べられるように見えない青い魚、後は今まで見たことのない貝しかなかった。私の好物のマグロやサーモン、カツオはなく、この時点で私は大変がっかりした。

 次に副菜の中華風サラダだが、胡瓜や人参、モヤシなどの中に春雨ではない何か細長いゴムのような見た目のものが入っていた。秋実さんに確認したところ、これは細切りにした豆腐の皮らしい。

 そして主食が冷汁ひやじるだったのだが、というのは人生初体験だった。味は悪くないがなんだか体が冷えてしまって、私は後でお爺さんが食べていた「せん麺」という謎のにゅうめんのようなものを少し分けてもらった。

 結局一番おいしかったのは、平たい唐揚げのような食べ物だった。豚肉のような香りがしたが、実際に食べてみた食感的には何の動物の肉なのか不明だった。

 近くにいたおじさんに「これって何でできてるの?」と聞いたら「け? すりゃはらわたざ」という返答が得られた。「バブイ」が一体魚なのかカエルなのか悪魔のペットなのか見当もつかないが、おいしかったのでよしとしよう。


 十時を過ぎた。食事が終わってもおじさんたちは相変わらず飲み続けていたが、私は一人で居間のテレビを見ていた。あれほど元気よくはしゃぎ回っていた子供たちもとうとう寝てしまい、私はテレビを独占していた。

 のテレビは一見すると、テロップの出し方も効果音のつけ方も極めて日本のものとよく似ている。だが先ほど一通りチャンネルを回してみて気づいたが、知っているテレビ局や番組は一つもなく、出演している芸能人も誰一人分からなかった。そして、漫才ではなく漫談の方がメジャーらしくピン芸人がステージ上で喋るだけの番組があったり、お坊さんがひたすらお経を読み上げるだけのチャンネルがあったりと、この並行世界は私のいた日本と節々違うようだ。

 ここで私に一抹の不安が生じた。

 ひょっとして私が知っている日本というのは私の妄想でしかなくて、実はこちらの方が正しい世界なのでないか。

 まるで胡蝶の夢のようだが、この逆説的仮説は私が現在置かれている状況を正しく説明できるようにすら思えた。あまりに天才的な閃きに私は身震いし、同時に恐怖を感じた。

「あ、る!」

 そんな哲学的な不安に囚われていた時、秋実さんがいきなり大声を出した。するとまだ部屋に残っていた人たちが一斉に宙を見つめた。

「づけ行って?」

「づく?」

 彼らは皆手にスリッパや丸めた広告などを握りしめていた。

?」

 何が起こったのか分からず、私は秋実さんに聞き返した。彼女はこちらには目もくれず、いやに真剣な表情でその場に立ち尽くしたままだった。

ざい、。虫

 私は彼女の視線の先を追いかけた。すると天井の照明の方に向かってブーン、という羽音と共に小さな虫が飛んでいくのが見えた。

はえか」

 私はやっと理解した。しかしここで素朴な疑問が湧いた。

「でもそれじゃ、タバコの『はい』と虫の『はえ』はどうやって区別するの?」

 すると、酔っぱらったおじさんたちが争うようにまるででたらめのようなことを言った。

「『へー』は『へー』、すらんぢゅる『へー』は『へー』」

「いや、『』に決まっつる」

「『』ざっぱ?」

 適当な言語だな。

 こんなメチャクチャな方言が現実の日本に存在していいはずがなく、私はやはり自分が正気であることを確信した。


 しばらく経って、やっと他の親戚たちから解放されたのか秋実さんがテレビを見ている私の所にやってきた。

「まだむけ?」

 秋実さんは焼酎の入った大きな酒瓶を持ち上げてみせた。

「もうお酒はいいかな」

 しかし私はもう飲む気がしなかったので断った。すると気を利かせたお母さんが冷蔵庫の方から「? ?」と聞いてきた。どちらも何だか分からなかったが、私はとりあえずお茶を頼んだ。

「まあ、茶み」

 秋実さんはそう言って、台所からおつまみを持ってくるついでに持ってきたプーアル茶を差し出した。

 彼女が私の横に腰かけたとき、テレビではちょうど交通事故のニュースが流れ、現場に居合わせた地元の人がインタビューを受けていた。

「『まーっさっきうつがすてな、うりゃ『今朝は台風てーふーけ』てうむうてな……』」

 どうせ方言が分からないのでとりあえずニュースをつけていたのだが、地元の人の発話部分だけは字幕がないとさっぱりでまるで外国語のようだ。

 すると、秋実さんが私の隣に座ると同時にリモコンを奪った。

「またくったん……、面白うむっし番組な」

 彼女が何度かチャンネルを回すと、画質が古すぎて一体何十年前に撮影されたのか分からない昼ドラのような番組が放送されているのが目に留まった。

 雨の降りしきる町で、二人の着物姿の男女が石畳の上でお互い見つめ合っていた。彼らは方言で睦言を交わしながら抱き合った。

「『うめった、好きなんざい』」

「『きーさん……』」

 クサい演出もさることながら、穏やかな声で読み上げられるナレーションと叙情的なBGMが古き良き時代を感じさせる。

 私がありもしない感傷に浸っていると、番組の最後に女性がグラスで焼酎を飲むシーンが入り、「南海芋焼酎なんかいいもじょうちゅう八木野やぎの 逢瀬おうせ」というテロップが浮かび上がった。

「あれ、これ焼酎のCMだったの?」

 すると秋実さんは『惜別』というラベルの貼られた焼酎の瓶を指さして、なんだか楽しそうに説明した。

「うん。『初恋』、『逢瀬』、『惜別』てシリーズになっちゅる。ラマみてーに見えるっぱ?」

 彼女はそう言ってニッ、と微笑んだ。

 そんな話をしている内にCMから画面が切り替わり、歌番組の再放送が始まった。

「『さて、皆様こんばんは。本日もPop Studio Japanの時間がやって参りました。今日のゲストは奈津崎が生んだ正化しょうかの大スター、『レモン姫』こと鈴木ランカはんだす!』」

 今回は懐メロを中心とした内容のようで、司会者の呼びかけと共にキラキラした黄色いドレス姿の中年女性が笑顔でステージに登壇した。同時に会場からは拍手が巻き起こり、司会者は関西弁のような独特の言葉遣いで紹介の文言を読み上げた。

「『鈴木はんはかつて一世を風靡した『シンデレラ』のボーカルとしてデビューして以来、その名前と美しい歌声で多くの人々を魅了して来はりました。皆様もようご存じ、2000年4月24日にリリースされてから三百万枚を売り上げたアルバム『First Kiss』のタイック『First Kiss』はまさにサイキョー・サウンドを代表する一曲で、日本の音楽史に金字塔を打ち立てました。……』」

 私はおつまみのピーナッツを食べながら、司会者の煽り文句に突っ込みを入れた。

「鈴木なんて、スターにしてはずいぶん普通の苗字だな」

 すると隣で鶏の足を齧っていた秋実さんがすごい剣幕で言い返してきた。

「何うちゅる、『鈴』に『木』なんてまっさ可愛かうぇーさい。ああ、羨まっせ!」

 その発想はなかった。

 私はここでようやくあることに気づいた。

「……ひょっとして『佐藤』って珍しいの?」

 すると秋実さんはまたキラキラと目を輝かせた。

「うん。今まで一回見てつきねー! 『佐藤幾多郎』なんて、俳優さんみたいで名前ざ」

 先ほどから気になっていたのだが、どうやら奈津崎弁では「体がいい」というのは「かっこいい」という意味らしい。

 いやはや、今日はずっとカルチャーショックの連続だ。

「……そっか、ありがとね」

 私は秋実さんと視線を合わせないまま、小さくお礼を言った。

「あ?」

 彼女は少し戸惑ったように聞き返した。それでも私は、今日秋実さんに出会えた幸運にとりあえず感謝した。

「いや、今日は色々お世話になったから。ありがとね、本当」

 すると彼女はフッ、と笑って私の肩を叩いた。

「何ね、急に。支障ししゃーせ」

 彼女が照れ笑いする横で、私はとりあえずつられ笑いをした――フリをした。

 気がつくと、テレビからは「恋はラムネ色」という曲が流れていた。どこかで聞いたことのあるような懐かしい旋律で、私は自然と目を閉じて聞き入っていた。


 それにしても、は何もかもが鏡に移したみたく反対の世界だ。

 東京ではなく「西京」があって、女でも自分のことを「俺」と呼び、車は右側を走り、猫は鎖につながれている。

「そういや、あの猫。あんなことしてひどくない?」

 急に玄関の猫のことを思い出して、私は秋実さんに尋ねた。すると彼女は、

「ニャーすけ可哀想かうぇーさーざなぁ……。自由にづっか行けんしゃで」

 と、まるで大げさに嘆き悲しんだ。

 秋実さんは違う世界の人ではあるが、ああいう状態がかわいそうだと思っているようだった。その辺の感覚が同じであることに私はほっとした。

 ニャーすけ、って名前だったんだな。

「せめて、家の中で放し飼いにしたらどう?」

 私はちょっとした提案をしてみた。しかし秋実さんはなぜか首を縦には振らなかった。

「まあ、仕方すかたせ。つんまり、くっから逃げられんな」

 彼女はそう呟いて、まだ少しグラスの中に残っていた焼酎を呷った。

 この時の秋実さんの目は寂しげで、ほんの少し虚ろで、ここではない遠いどこかを見ていた。


 もう十一時近くになっていたが、酒盛りは一向に収まる気配を見せなかった。私は一足先にお風呂を借り、一人だけ客間に布団を敷いて横になった。

 なんだか色々ありすぎた一日だったな。

 日本のようで日本ではない謎の世界に迷い込んで、知りもしない女の子に小学校の同級生だと言われて家に連れて行かれて、その子の家族と一緒にお酒を飲んで……。

「こいつはとんだ不思議の国のアリスだな……」

 はじめは神経が高ぶって中々寝つけなかったが、徐々に疲れと睡魔が勝って私は眠りに落ちた。


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