第6話 牛の骨
木中家の居間は戦場だった。
座敷に通された私がまず目にしたもの――
テーブル席では男たちが料理をつつきながら飲めや歌えやの大騒ぎで、その横で子供たちは子供たちで畳の上をどたどたと走り回って遊んでいて、それを若い母親たちが叱りつけていて、居間とつながった台所ではおばさんたちが料理を作っていて、そうかと思えばお爺さんがマッサージチェアに横たわって一人静かにテレビを見ている。
十畳ほどの和室の中では、総勢十名以上の人々があちこちで好き勝手に色々なことをやっていて、とても収拾がつかない状態だった。
家族での酒盛りって言うよりも、もはや町内会の集まりだな。
目の前の混沌に唖然としていると、秋実さんが手を叩いて皆に声を掛けた。
「くん人がさっき言うて
どうよ、と言わんばかりに秋実さんは私に向かって両手を突き出した。
瞬間、その場にいた全員が私の顔に釘づけになった。急に話を振られた挙句、一斉に何十もの瞳に見つめられて私は言葉に詰まってしまった。
「えっ……。あっ、どうも、佐藤幾多郎です……」
しどろもどろになりながらも、私はなんとか笑顔で動揺を隠し通した。しかし同時に、シャツの内側からどっと冷や汗がにじみ出るのを感じた。こんなことは今いる会社の入社面接以来だった。
これだと完全に結婚挨拶にでも来たんじゃないかと誤解されるよな。
そんなことを考えていたら急に心臓がバクバクしてきて、私は一旦トイレに避難して心を落ち着かせようとした。
「あのー……、すみませんがちょっとト――」
しかし今度は隣にいた秋実さんが私の腕をガッシリと掴んで離そうとしない。とても逃げられそうになかったので、私はいよいよ腹をくくってその場に留まった。
「……ちなみに、今日はどういう集まりなんですか?」
適当に話題を振ったつもりだったが、近くにいたおじさんが大層驚いたように尋ねた。
「うめえさん、
「ふ、
頓珍漢な聞き間違いに、周囲の人たちがクスクスと笑った。
おじさんは私の言葉に少し顔を顰めたが、私の質問にちゃんと答えてくれた。
「明日、
するとそのおじさんと反対側の席に座っていたおばさんが説明を付け加えた。
「明日は旧暦ん
間をもたせようと、私はさらに質問してみた。
「ここにいる皆さんはみんな木中さんなんですか?」
すると反対側の席に座っていた若い男が答えた。
「まぁ、大体な。違う
私は改めて周囲を見渡してみた。すると確かに似た顔の人が多かったものの、そうでない人もいるようだった。
しかしここで、手前側の席にいた一人の短髪の若い男の人がなぜか目を潤ませてこんなことを言ってきた。
「良さってな、秋実っちゃ!
彼は純粋に祝福しているようで、手元では小さく拍手までしていた。
察しのいい彼に内心困り果てた私は、彼に向かって懇願するように熱い視線を送った。無論、彼は私の救難信号になんて気づくはずもなかった。
また、子供たちは素直に喜んでいるようだった。
「
「あいあい、羨まっせ」
しかし当然、他の親戚一同は微妙な反応だった。
「すなんが、急に言い出して……」
「散弾結婚なんて、みったーなせ……」
彼らは怪しむように私の方をじろじろ見てきた。
これはまずい。
私はあらぬ誤解をされたくなかったので、私はきちんと言葉にして自分の立場をはっきりさせようとした。
「いやいやいや、私、秋実さんには本っ当に今日会ったばっかりでして、まだ何も……」
私は必死で誤解を解こうとした。
だが、テーブル席から離れた部屋の隅で飲んでいた赤ら顔のおじさんが横やりを入れてきた。
「何ね、今から
彼そう言って下種な笑いを漏らした。
すると何を勘違いしたのか、私から見て反対側、テーブル席の真ん中にいたお父さんと思しき人がとうとうテーブルを叩いて叫んだ。
「やい、くんダラ助! うめえみてーなづくん牛ん
彼は般若の形相でよろめきながら立ち上がったが、彼の両隣に座っていた数人が彼を止めた。彼は相当酔っているようで、足元がおぼつかずふらふらしていた。
「『牛』の骨……?」
罵倒されたというのに、私は彼の独特な言葉遣いのせいで怒る気になれなかった。しかし秋実さんは大げさに私を庇ってくれた。
「つっちゃ、違うんざて! 彼はただん『連れ』ざい、小学校ん
秋実さんの言葉を聞いて、彼は一度黙った。彼は無表情のままその場に立ち尽くし、据わった目でじっと私の顔を見つめた。
「……くったん
すると彼は俯きながら何やらぶつぶつと独り言を言っていた。方言に加えて呂律が回っていないせいで何を言ったのかはっきり聞こえなかった。
そして彼はもう一度私の顔を見ると、いきなりこんなことを尋ねた。
「うめえ、マニュアル車運転
突然何の脈絡もない謎の質問をされて戸惑ったが、別段隠すようなことでもないので私は正直に答えた。
「いえ、オートマ限定です……」
すると彼は鼻で笑った。
「ハッ、
何か罵倒されたように思うが、また聞き取れなかった。
私が困惑していると、彼は片手に持っていたおちょこを私に向かって突き出した。
「
「しゅりゃー?」
私が困り顔で聞き返すと、彼は大声で怒鳴った。
「酒は
やっと意味が理解できた私は、今回は少し虚勢を張った。
「ま、まあ、普通ですかね……」
実は私は下戸で、完全に飲めなくはないもののお酒が苦手だった。しかし嘘だと見抜かれてしまったのか、彼は呆れたような表情で目をつぶった。
「
私は隣にいた秋実さんに耳打ちして助けを求めた。
「かーがなせ、って何の意味?」
「
「説明になってない」
「あ? 『効がない』が標準語ぜぁらんけ? 『効果』ん『効』て字ざい?」
ダメだこりゃ。
とっさに生粋の奈津崎っ子に通訳を頼んだのが間違いだった。
しかしここで、思わぬ人物が助け舟を出した。
それまでずっと黙ってマッサージチェアで横になっていた一人の老人が立ち上がり、こちらへ向かってゆっくりと歩いてきた。彼はこの中で一番高齢と見え、仙人のように艶やかで白髪と立派な白い顎鬚を蓄えていた。
彼は曲がった腰を片手で抑えながら、人混みをかき分けて私の前に歩み出た。多少よろよろとしてはいたが、確かな足取りだった。
「ますらーさん」
「ぢっちゃ」
その場にいた全員が各自やっていたことを中断して、彼に声を掛けた。彼は皆からとても慕われているようだった。
このお爺さんは木中家の
彼はしばらく口を閉ざしたまま顎をさすり、何かを見定めるように私の顔を注視していた。
そして一言。
「
彼はお釈迦さまのように優しく微笑んで私に語り掛けた。
「くったん
地獄に仏とはまさにこのことで、思わぬ言葉に私は畏れ入った。
「いえ、私こそ急に押しかけてしまって、そちらも迷惑でしたよね……」
しかし彼は私の言葉を聞いて首を横に振った。
「人類皆
彼はそう言い残すと、ふたたびマッサージチェアの方に戻っていった。
ペンギン柄のパジャマ姿の主様からありがたい御言葉を頂き、私は無事木中家の酒盛りへの参加を許してもらえた。
「それにしてもキナカって珍しい苗字ですよね」
私は今までの人生で、「木下」ならともかく「木中」というのは一度も聞いたことがなかった。
しかし木中家一同はこれまたひどく驚いたように反応した。
「全然すったん
「
彼らは口々に私に向かって何かを言ってきた。複数の人が同時にきつい方言で話しかけてきて、聖徳太子でも何でもない私は混乱してしまった。
誰が誰だかはっきりさせようと、私は周りにいた全員に呼びかけた。
「そういえば、皆さんお名前は?」
すると秋実さんが一人ひとり解説してくれた。
「まづ、ぢっちゃが『
秋実さんは最後の部分を言い直した。しかし、私にとっての違和感は別の所にあった。
「ひょっとして聞き間違いかもしれないけど……、秋実さんのお父さんって『シアキさん』って言うの?」
「チアキ」ではないのかと一瞬悩んだ。しかし秋実さんは特に気にする様子もない。
「うん、何か
「いや、別に……」
考えてみればノウミというのも妙な名前のように感じる。
秋実さんは次に、手前側の席に座っていた眼鏡のおじさんの方を見た。
「で、彼が
秋実さんは「お」の部分をできるだけ気をつけて発音した。しかし私はまた聞き返してしまった。
「シナリさん……? 本当にそういう名前なの?」
やっぱりおかしい。何かこう、微妙に日本人ではないような感じがする不思議な響きの名前だ。
するとイライラしたように志明お父さんが反論してきた。
「『
この日本では一般的な名前も違うのだろうか。
あまり不審に思われてもいけないので、私は引き下がった。秋実さんは相変わらず何にも気づかず、今度は反対側の席に座っていた若い夫婦の方を見やった。
「で、すくん
すると、志明さんの隣にいた茶髪の若い男の人が黙ったまま軽く一礼し、その隣に座っていた秋実さんと同い年ぐらいの女性が大きな声で挨拶した。
「ハーイ、
珠良さんは秋実さん以上に化粧がきつく、派手な柄の入ったジャージを着ていた。博志さんも博志で、でかでかと漢字のプリントされたスウェットにじゃらじゃらした金属製のネックレス、といういかにも田舎のヤンキーという格好だった。
いかにも元ヤン夫婦という感じだ。
初対面ではあったが、私は少し苦手意識を持ってしまった。ちょうどそちらを見ていた私と視線が合って、博志さんは缶ビールを片手に話しかけてきた。
「うめえが秋実ん新っし彼氏け?」
「いや、違いま――」
「かー! 秋実め、やるなー」
私が返事をするのも待たず、博志さんはひとり合点したように大きく頷いた。そして彼はなぜか、秋実さんの方を見てふて腐れたように笑った。
「やい、秋実。はーあん
彼がそこまで言いかけたところで、秋実さんが思い切り彼を睨みつけた。すると彼は、
「うめえ、気張りや」
とだけ意味深なことを言ってきて、そのまま黙ってしまった。秋実さんは焦ったようにまた手前側の席の方を指し示すと、笑顔で紹介を続けた。
「で、彼が
秋実さんの紹介に応えて、爽やかな好青年という感じの若い男の人が出てきた。
「こんばんはー、
崎池さんは白い歯を輝かせて元気よく自己紹介した。彼は博志とは正反対の品行方正タイプのように見えた。
この人、さっき俺が秋実さんと付き合っていると勘違いしてきた人だ。
秋実さんはさらに説明を加えた。
「停車場ん
しかしそれより、問題はまた名前だ。
「池崎さんならぬ崎池さんか……。またミョーな感じだなぁ」
実際に口にしてみると違和感がひどい。
しかし秋実さんは何も疑問に感じていないらしい。
「さーけ? くん辺りぜぁ普通ざに?」
彼女は怪訝な表情で私を見返したが、更に次の親戚の紹介に移った。
「すれで、くん
麗華さんは志成さんのさらに右隣に座っていたおばさんだった。麗華さんは秋実さんと同じような帯のない着物を着ていた。
「はじめやすて、
麗華さんは私の方を一瞥してにっこりと笑った。
感じがよさそうなおばさんだな。
私がそんなことを思っていると突然、博志お兄さんが麗華さんにこんなことを尋ねた。
「
するとほんの一瞬部屋の空気が凍りつき、気まずい沈黙が流れた。
「
麗華さんはなぜか視線を逸らし、申し訳なさそうな顔で答えた。後で聞いたが、「
しかし何も事情を知らない私は、空気を読まずに元の話を戻した。
「麗華さんも木中家の方なの?」
すると黙ってしまった麗華さんの代わりに秋実さんが答えてくれた。
「いや、おばさんは『
ここで私は再び聞き返した。
「タアラ? 『たわら』じゃないの?」
はじめ「俵」だと思ったのだが、どうやら違うらしい。
「『たわら』ぜぁらん。『
秋実さんは丁寧に字の書き方まで説明してくれたのだが、私はまたしても面食らってしまった。
「それで『
田新さん本人の目の前なので、私はなるべく失礼にならないように聞いた。すると秋実さんはまたとんでもないことを言い出した。
「
奈津崎県の「普通」とは。
私の知っている日本とのギャップに悩む私を横目に、秋実さんは平然と紹介を続けた。
「で、あすくん隅っちゃに
秋実さんの声に応えて、部屋の隅で飲んでいた二人がにっこりと笑った。
「貝久保に佐部? 大久保さんとか阿部さんならまだしも……」
さっきからなんで皆揃いも揃って変な苗字なんだ。
先ほどから変な名前の人が多すぎて話の内容が全然頭に入ってこないのだが、秋実さんはさらに追い打ちをかける。
「あー、
三十年かけて培ってきた日本人の姓名バンクが深刻なエラーを起こし、私はもはや突っ込むのをあきらめた。
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