第5話 木中家の猫
秋実さんの実家は
人混みの中、私は車窓の前で吊革につかまっていた。眼下にはすぐ秋実さんがいて、彼女の茶髪のプリン頭がよく見える。彼女はさっきから私には目もくれずスマホを弄っていたが、私はといえば彼女のことについて色々と悩んでしまっていた。
彼女はおそらく、そこまで若くはない。そして私は彼女が今までどういう人生を歩んできたのか気になって仕方なかった。
趣味は? 仕事は? 結婚はしているのだろうか?
ふつふつと、頭の中で様々な疑問が泡のように浮かび上がっては弾けた。
アキミさんは一体何を考えているのだろう。
先ほども彼女は、電車賃が払えない私の代わりに切符を買ってくれた。いくら「昔の友達」とはいえ、そんな遠いところまで誰かを連れて行こうとするのは親切というより不気味だ。そして、それに乗ってしまう私も私だ。
でも、一人で京都旅行をするのと、異世界人女性に地元を案内してもらうのと、どっちが楽しいのだろうか。
しばらくして私の視線に気づいた彼女は、バッグの中をごそごそとあさっていたかと思うと、銀紙に包まれた小さなお菓子を差し出した。
「チョコラートなづ食う?」
彼女は笑顔だったが、よく分からない発音に私はまた面食らった。
「チョコレートじゃないの? 『チョコラート』って、そういう商品名なの?」
すると私の言い方がよほど面白かったのか、彼女はチョコレートを握りしめたままケラケラと笑った。
「『チョコレート』て……、何すれ? 変な発音!」
どうやらこの世界だと外来語の発音も私の知っている日本とは節々違うらしい。そもそも標準語が存在したとして、こちらとは異なる可能性もある。
少し気になったので、私はここで一つ思い切って聞いてみることにした。
「そういや、秋実さんは『オ』と『ウ』がちゃんと区別できるんですね」
私が挑発するようにそう尋ねると、彼女は怒ったように言い返した。
「何
オバン、と言いたいのだろうか。
私は続けざまに抜き打ちテストをしてみた。
「『レモン』って言って」
「レム……、レモン」
「『コンピュータ』は?」
「クンピュータ」
「『アクセント』は?」
「エクセンツ」
「やっぱ言えてないじゃん」
からかうのが楽しくなってきたが、なんだかすごく悔しそうにこちらを見つめてきたのでこの辺にしておくことにした。
「でも『チョコレート』は『チョコラート』なんだよね……。どういう法則なんだろう」
私はアキミさんからもらったチョコレートを食べながら、一人考え込んでいた。すると彼女は不安そうに尋ねてきた。
「……やっぱし
彼女はがっかりしたようにため息をついた。
「私も西京に
また分からない固有名詞が出てきたので、私は一応確認した。
「『信州』ってこの字?」
私は手元のスマートフォンで漢字を変換して彼女に見せてあげた。すると彼女は訂正した。
「
なるほど、だから「津州」なのか。
私が一人で納得していると、彼女は
「くん辺りは昔、『
そう言って彼女は腕を組んだ。
「秋実さんの方言はどっち寄りなの?」
私の質問に彼女は悩ましげに答えた。
「知らん。出身ぬゎ
彼女は最近実家に戻ったらしく、地元にいると方言が戻ってくるとも語った。
そうこう話している内に、電車がどこかの駅に着いたようで停車した。田舎なのか電灯もなく真っ暗なせいで駅名標がよく読めなかったが、暗闇の中に「税所」という字がうっすら見えた。
私は特に何も考えず文字の通りに発音した。
「今は……『ゼイショ』?」
すると瞬時に地元民による手厳しい突っ込みが返ってきた。
「ああ、すりゃ『サイショ』て
秋実さんのありがたいご指導を聞きながら、私は車内の壁に貼られた路線図を見て今どの辺りなのか確認しようとした。
しかし。
「これ、漢検一級保持者でもない限り解読不能だろ……」
「椨中」に「萢田」、「廿六島」、「梁川泊」、「比咩路城」。
先ほど秋実さんに「ユリミザカ」で降りると言われていたが、「閖見坂」という漢字を見るまでどんな風に書くのか見当もつかなかった。
私はとりあえず読めそうだった終着駅の地名を読んでみた。
「『
これなら大丈夫だろうと高をくくっていた。しかし、またしても秋実さんに訂正されてしまった。
「すりゃ『
読めません。
いくら頭をひねっても一問も正解できず落胆する私をよそに、秋実さんは平然と続けた。
「八時十分に『
私は話ついでに彼女にこんな質問をした。
「南海道の南には『ナツガシマ』っていう島があるんだよね?」
「うん」
「南海道の周りには、他にも何か別の島があったりするの? 本州みたいな……、いや、南海道と同じぐらい大きな島」
すると彼女はさも当たり前というように答えた。
「すりゃ
しかし今回も私は黙っていられなかった。
「平洲に北東道? 北海道とか東北じゃなくて?」
私はいよいよ眩暈がしてきた。「南海道」はあるけど「北海道」はないなんて、何もかもあべこべの世界だ。
すると彼女は笑い交じりにいかにもそれらしいことを言った。
「何
言われてみれば確かに。
妙に説得力のある彼女の主張に言いくるめられ、私は感心してしまった。すると今度は彼女が私を挑発するように私の顔の前でひらひらと手を振ってみせた。
「うめえ、大事け? しっかりす、佐藤幾多郎くん」
彼女はそう言って、私の顔を覗き込むとクスッと笑った。
だからなんで俺の名前を知ってるの、と言いかけて私は黙った。それ以上追及しても自分に得がないように思えたからだった。
駅の改札から外に出た時、夜空には食べかけのクッキーのような半月が浮かんでいた。秋実さんの故郷
九時を過ぎて、私たちはようやく
彼女に連れられて、私は駅のすぐ近くにある有料駐車場にやってきた。トヨタでも日産でもないエンブレムが入った車が並ぶ中、彼女は黄色いフォルクスワーゲンのビートルの前で立ち止まった。
「中古車ざぜん、体がええっぱ?」
彼女はいかにも大事そうにボンネットを撫でながら自慢げに言った。しかし私は別のことに気を取られていた。
「この世界にもフォルクスワーゲンはあるんだな……」
私の反応が気に食わなかったのか、彼女はムスッとした顔で「早ぁ
彼女の車に乗せられ、道路の右側を走ること五分――
駅を離れるに従い、辺りの風景は次第に農地とその間に点在する住宅だけになっていった。
「高校の時どうしたの? こんな遠くから通うの大変だったでしょ?」
畑や川の間を縫うように続く農道を横目に、私は彼女に聞いた。すると彼女はハンドルを握りながら声を張り上げた。
「気張ってフイッツで
またよく分からない言葉が出てきて私は聞き返した。
「フイッツ?」
すると彼女はすぐに答えた。
「あぁ、バイクん
そういや駅前商店街に「フイッツ」が売ってたけど、バイクのことだったんだな。
「へー、高校生でバイク通学か。いいね」
私が羨ましそうにそう言うと、彼女は一旦怪訝な顔で私の方を見返した。勾配のきつい坂道に差し掛かり、彼女はシフトレバーに手を掛けながら尋ねた。
「『フイッツ』てフランス語け?」
思わぬ質問に、大学生の頃第二外国語でドイツ語をとっていた私は答えることができなかった。
「フランス語は知らないなぁ……。ドイツ語だとバイクは『モトーラート』だよ。英語でも『モーターサイクル』って言うでしょ?」
私の
「Motorcycleは自動二輪ざっぱ? フイッツは英語んbikeざい」
私ははっとした。
「え? 秋実さんの言ってる『バイク』って『自転車』のこと?」
すると彼女は恐ろしいことを言い出した。
「『自転車』て何?」
なんと
「待って、『フイッツ』が英語でいう『バイシクル』なんだったら、高校の時『自転車』通学だったってこと?」
「自転車」という言葉が通じないかと思い、私は一応ジェスチャーで自転車を漕ぐ真似をしながら尋ねた。すると彼女はうん、と頷いた。
なんでそこだけ正しい英語を使ってるんだ。
この時やっと今までの会話がかみ合わなかった原因に気づき、私は頭を抱えた。しかし、そんなことには気づかない彼女は外来語攻撃の手を緩めない。
「まぁ、週三たー言え、今ぜん
「ドゥラスク?」
「ドゥライビングスクールざい。高野県ぬゎ『自動車学校』て言うけ?」
「それってもしかして、『教習所』のこと?」
私たちが方言談議に花を咲かせていると、木中家に到着した。
その平屋建ての建物は四方をたくさんの低木に囲まれていた。この広さから見るに、これは庭ではなくおそらく農園だろう。
そういえば、ここに来る途中に見かけた他の家も全て農家のようだった。
車の外に出た私は大きく伸びをして、深呼吸をした。夜の冷たい空気が肺を満たし、何かの苦い香りが鼻をつく。
「ここって、何育ててるの?」
玄関まで歩く道すがら、私は何の気なしに秋実さんに尋ねた。すると秋実さんは道沿いに並ぶ植樹に鈴なりになった果実を指さした。
「レモン。
そう言って彼女はなぜかふぅ、と息をついた。
そういや、レモンのマスコットキャラとかいたな。
そんな話をしていると、段々と木中家の玄関が近づいてきた。木中家は郵便ポストが黄色いことと玄関脇に猫が鎖でつながれていることを除けば、一見どこにでもありそうな日本家屋だった。
そのブチ猫は「なぜるな!」という張り紙の貼られた猫小屋の中で居眠りをしていた。そして接近してくる足音に一応目を覚ましたが、秋実さんの顔を見るなり大きくあくびをしてまた寝てしまった。
「ああ、県が条例で決まっちゅんざ。あったしゃんと、
私が不思議そうに猫を見つめていると、秋実さんが家の鍵を取り出しながらそう言った。
私がそんなことを考えている内に、彼女は玄関の格子戸の鍵を開けた。先ほどから家の中から誰かの話し声が漏れ聞こえていたが、彼女が戸を開けた瞬間、そのがやがやとした話し声が一気に大きくなった。
「ただいまー」
彼女が玄関でそう叫ぶと、家の中からドドッ、という足音と共に笑顔の子供たちが勢いよく走ってきた。
「
その三人の子供たちは帰ってきたばかりの秋実さんの足にまとわりついた。彼女は「
「この子たちって兄弟?」
彼らがまだかなり幼かったので、私は気になって彼女に尋ねた。すると彼女は彼らを抱きかかえたまま答えた。
「いや、親戚ん
彼女は男の子を背中に背負ったままそう言って微笑んだ。するとアキミさんの足にまとわりついていた女の子が私を指さした。
「くん
するとアキミさんは彼女の頭を撫で、笑顔で返事をした。
「
「へー!」
子供たちは一斉に私に好奇の目を向けてきた。
視線が痛いな。
私が子供たちの熱い眼差しに困っていると、居間の方から酔った男の声が響いた。
「アキミ、今帰ってけ? うめえ、
彼女は玄関の土間に立ったまま叫び返した。
「別に、
「酒買ぁてけ?」
「ねーや、すなんが!
彼女がまるでケンカでもするように大声で怒鳴ったので、私は少しびっくりしてしまった。
「……今のは?」
「つっちゃ」
「?」
「あぁ、『父さん』て意味」
彼女は子供たちに居間に戻るように言いつけると、やっと靴を脱いで上がり框をまたいだ。
私も彼女に続いて家に上がろうとしたが、スーツケースをどこに置いていいか迷った。すると彼女が床に新聞紙を敷いてくれ、私たち二人は協力して重たいスーツケースを一緒に持ち上げその上に乗せた。
「せーのっ!」
「やっせ!」
ちぐはぐな掛け声とともに、スーツケースは無事玄関横の棚に収納された。
私が一息ついていると、アキミさんが居間へと続く廊下の方を手で指し示した。
「
彼女は特に歓迎の言葉も口にせず、まるで古い友人に接するように私を家に招き入れた。
私は彼女に導かれるまま奥へと進んだ。木中家の居間には多くの人が集まっているようで騒がしく、壁越しに時折ガハハ、という笑い声が聞こえた。
宴もたけなわ、か。
たくさんの知らない人と話さなければならないということに気づいて、私は今さら少し緊張した。そして私が気を引き締めて居間の襖を開いた時、そこには錚々たる面々が待ち構えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます