第4話 下津絣の女
同じ日本とは思えない奇妙な方言に謎の食べ物、祭り好きでケンカ好きの
この世界に来て、私はずっと目を背けてきた自分の中にある怠惰さをなおさら強く自覚することになってしまった。
現在、私が置かれている状況は悪い。仕事もなく、金もなく、住む家もなければ誰一人知り合いもおらず、このまま何も手を打たなければ明日からホームレス生活である。
結局この世界でも明日から何らかの手段で食べていかなければならないことに変わりはない。
しかし。
「明日は明日の風が吹く。そして何より、腹が減っては戦はできぬ」
少しは逃げたっていいよな。
そう自分に言い聞かせて、小腹がすいてきた私は有り金をはたいてお祭りの露店で食べ物を買ってしまったのだった。
「これ、『あんじょうやき』っていうのかなぁ?」
私はそのタコスのような食べ物を手に取ってまじまじと見つめた。「安城焼き」というのは薄いパリパリの皮にエビないしハム、もやし、レタスなどを巻いたもので、味としては全く悪くなかった。一見おかずクレープのようにも見えるそれは、中国やベトナムのストリートフードという感じであまり日本らしさはなかった。
「入ってる材料だけ見たら日本っぽいんだけどな……」
着物を着て縁日で遊ぶ親子連れを横目に、私は口の中に熱々の安城焼きをほおばりながら境内を歩いていた。
改めて周囲を見回すと、大体子連れかカップルかで、自分が孤独であることを思い知らされた。
そういや、お祭りなんてずっと行ってなかった。
まだ日本にいた頃も、インドア派の友達が多かった私は彼らと一緒に遊園地やこうしたイベントに出かけることはめったになかった。年に数回友達同士で集まっても、精々家の中でゲームをするぐらい。
一人暮らしで彼女もいない私は普段アパートでずっと一人で過ごしていたし、オフの日はただ家で寝ていることが多かった。
慣れっこになってはいたが、やはり一人はさみしい。心のどこかでずっとそう思ってはいた。
そしてそんな私は今、見知らぬ異国の地にいる。
私は食べ終わった包装紙をゴミ箱に捨て、孤独感にさいなまれていた。
午後八時を回った。完全に夜の帳が下り、真っ黒な夜空にきらきらと星が瞬いていた。ライトアップされた神社の境内にはいまだ多くの参拝客がいて、祈りを捧げたり談笑したり思い思いのことをして楽しんでいた。
いい加減、今晩泊まる場所を探さなければならない。
再び石段を下りようと、私は参道を歩いてさっき来た道を引き返そうとした。
その時、後ろから私に声を掛けるものがいた。
「やい、うめえまさか、きっちゃんけ?」
若い女性の声だった。声の主が気になって、私は反射的に後ろを振り返った。
するとそこには着物姿の若い女性が立っていた。彼女はそれは大層驚いたように大きく目を見開き、私の方をじっと見つめていた。
人通りの多い参道で、私たち二人は雑踏と喧騒の中でお互い黙ったまま見つめ合った。まるで一瞬、そこだけ時が止まってしまったかのようだった。
「あー、やっぱきっちゃんざー! 久しぶりー、元気け?」
彼女は私の顔を確認すると、飛び切りの笑顔で手を振った。しかし私は固い表情を崩さず、あくまでも冷静に返事をした。
「……誰、ですか?」
先ほどのタクシー運転手の件があって、私は「きっちゃん」というのがこの世界では単に呼びかけの意味で使われているということは知っていた。だから今度こそ、大げさに反応しないようには心がけていた。
すると彼女は、私の真剣な様子が面白かったのか吹きだしてしまった。
「
彼女はそう言って自分の胸を右手で叩いた。私はもう一度彼女を頭のてっぺんから足の先まで見た。
彼女の年齢はおそらく私と同じぐらい。髪は茶髪、化粧は割ときつめで、どぎつい赤色のリップが目立つ。目鼻立ちがくっきりしていて身長が高めであることを除けば、人種的にはただの日本人のように見えた。スタイルのいい彼女の立ち姿はモデルのようで、星空と神社を背景に凛とした濃い藍色の着物がよく映えた。
そしてもちろん、私にそんな女子らしい友達がいた記憶はない。そもそも違う世界に来ているはずなのに、知り合いなどいたらおかしいはずだ。
はじめ、私はつっけんどんにはねつけた。
「いや、知らないです。人違いでしょう?」
正直この時点では、何か面倒なことに巻き込まれそうで嫌な感じがしていたので、私は早めに話を切り上げたかった。しかしかみ合わない会話にイライラしてきたのか、彼女は不意打ちの王手をかけてきた。
「あいあい、
彼女がしびれを切らして私のフルネームを呼んだとき、私は思わずあっ、と声を漏らした。
彼女は地面の石を蹴飛ばしてつかつかとこちらへ突進してくると、至近距離までやってきて私の正面に立った。そして彼女は、何かひどく恨みがましそうな目で私の顔を見つめたのだった。
「
キナカアキミという名の女性はそう言って自分の顔を指さした。こうして並んで立つと彼女は私とほぼ同じ身長なのでかなり迫力があった。
香水のいい匂いのする若い女性にいきなり距離を詰められて、私はたじたじになってしまった。だが、いまだ私は彼女が誰なのか、皆目見当がつかなかった。
にしても「キナカアキミ」って、なんだかちょっと変な名前だな。
「……すいません、全く覚えてないです。どこかでお会いしましたっけ?」
私は申し訳なさそうな表情をしつつ、本当に覚えていないものは仕方ないので素直に告白した。
すると彼女は「あー、効がなせ」と言いながら、もどかしそうな顔で必死に訴えた。
「ざーげーん、昔、同級生ざってっぱ? あれー、小学生ん
「カエル釣り?」
「さーさー。
彼女は大きな目を輝かせて、表情豊かにありもしない思い出話をした。私は最初、一応話の腰を折らないように彼女に付き合ってあげていた。
ちなみに私は小学生の時、海なし県として名高い埼玉県の団地に住んでいた。断じて、そんな自然に溢れた環境ではない。
「いや、それたぶん違う人」
私は容赦なく真顔で否定した。
「あ?」
「いや、だから違う人。絶対。そんなことして遊んだ覚えはない」
私は心を鬼にして、少なくとも彼女にとっては美しい子供時代の記憶を粉砕した。
すると彼女はうーん、と唸りながら額に手を当てて考えていたが、一分ほど経って諦めたようにこう言った。
「ま、まぁ……、昔ん
彼女はアハハ、と照れ笑いした。
あれだけ自信満々に話しかけてきたのにちゃんと覚えていないとは、いかに。
私は秋実さんのペースに乗せられながら、先ほどから疑問に思っていたことを尋ねた。
「そういえば、なんで秋実さんの着物は帯がないんですか?」
先ほどから周囲にいた女性たちの着物を見て気づいてはいたが、彼女らは皆普通の和服なら本来あるべき太い帯を巻いておらず、何やら腰の右側部分を紐のようなもので縛っているだけだった。そして私はそれを見るたび、ここが日本ではないという事実を思い知らされているような気分になって、少し憂鬱な気分になっていた。
「あぁ、くれけ? 見えんだけで、内側に帯があるんざに」
すると彼女は着物の上部から垂れ下がった布を持ち上げて、腰のあたりを見せた。すると服に隠れて、帯とも帯締めともつかないような紐が腰のあたりに巻かれていた。
なるほど。帯を隠すデザインになっているわけか。
彼女は袖を振りながらその場でくるくると回ると、上下左右何かを確かめるように自分の着物を見ていた。
「
彼女は袖を振りながら、少ししょんぼりした顔で寂しげに笑った。花をあしらった幾何学紋様の生地は美しく彼女にとても似合っている感じがしたが、彼女は気に入らないようだ。
しかし私はまた飛び出した謎の固有名詞に戸惑っていた。
「シモズガスリ……? 『西京更紗』って何だ? 京友禅じゃないのか?」
思わず突っ込みを入れると、彼女は眉間に皺を寄せた。
「はぁ?
彼女があまりにも当たり前のように言うのではじめ聞き流しそうになったが、私は思わず聞き返した。
「ちょっと待って、西京って町があるの!? 東京じゃなくて?」
彼女はきょとんとした顔で首を傾げた。
「『
なんと彼女は東京を知らないようだ。どうやらこの世界はどこまでも日本とは反対らしい。
彼女もようやくおかしいと思い始めたのか、こんなことを尋ねてきた。
「きっちゃん、さっきから
知らない場所の名前を言われて私はまた困ってしまった。
「いや、幼稚園からずっと埼玉県なんですけど……」
「サイタマ? すれ、づくん話?」
彼女は埼玉も知らないらしい。私はますます、自分がどこだか分からない世界に来てしまったことを自覚して薄ら寒く感じた。
しかしこの秋実さんと来たら、初対面なのにすごくなれなれしかった。
彼女は何かを思い出したように手を叩いて、平然とこんなことを宣い出した。
「さーさー!
彼女はこの流れで私を家に誘った。突然の急展開に私はただドギマギして、どう返事をするかで真剣に悩んでしまった。
「急にそんな……。私、完全に部外者ですよ?」
というか、知り合いですらありませんよ。
反応に困った私は結局そんなことしか言えなかった。
今までの人生で女性の方からこんなに積極的に来られたことはないが、まさか出会っていきなり実家に連れていこうとするとは。これはナンパとも違うような気もする。
しかし彼女は全く私の思いなど意に介さないようだった。
「ええっぱ、別に。たくさん人来るし、一人ぐらい知らん
彼女は髪を弄りながらケラケラ笑った。
「そういう問題なのか」
強引な彼女に私はあきれてしまったが、彼女は更に話を畳みかけた。
「何? くん
痛いところを突かれて私は言葉に詰まってしまった。
「いや、特にないけど……」
「すれなら、決まり! みんなで
「でも……」
私は彼女が何を考えているのか全く分からなかった。初めて出会った男にいきなり過去に出会ったことがあると言い出して、でも自分では覚えていなくて、考えてみればメチャクチャだった。
でも、却ってそれが心強い。
私は今、見知らぬ土地で一人だった。自分を助けてくれる人がいるなら、どんな人でも構わない。
「
彼女は焦ったような顔で私を急かした。
彼女の勢いに押されたのか、旅の空気に酔っていたのか――
「……分かりました。行きます」
どうせ今日泊まる場所もないし、と言いかけて、やっぱり言うのを止めた。なんだか彼女を利用しているように感じられてためらったのだった。しかし後で思えば、彼女こそ私を利用していたのかもしれない。
「うん、
彼女は子供のように屈託なく笑って、元気よく手招きした。
こうして私は、今日出会ったばかりの秋実さんの実家にお邪魔する運びになった。
「そういえば、秋実さんってなんで自分のこと『
秋実さんは女子なのに、自分のことを「俺」と言っていた。
「
彼女は再び恥ずかしそうに笑った。私はこれまた適当なフォローを入れた。
「まあ、女の子でも自分のことを『俺』って呼ぶのもアリじゃないかな、とは思いますよ?
しかし彼女は不思議そうに聞き返した。
「あ? 『
後で知ったが、
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