仲居さんと宇宙人さん

二葉ベス

「宇宙人って、本当にいるんだ」

「宇宙人って、本当にいるんだ」


 それが宿の予約を受け取った後の第一声だった。


 わたしはとある小さな旅館で働いている16歳の仲居だ。

 今は高校へ通いながら、仲居としても働いている所謂二足のわらじを履いている状態。

 何故そんな生活を送っているか。何故たった16歳の身で働いているのか。理由なんてものは単純で、両親がこの旅館の主人と女将だからである。人手が足りないってことで、働き手として娘を選んでいる辺り、本当に人手もお金も足りていないのだろう。

 卒業後は恐らく旅館の手伝いをしながら、若女将として働くことになると思う。

 昔はちゃんとしていながら曖昧なくらいふわふわしている将来の夢を考えていたこともあった。

 でも雲のようにいるのかいないのかはっきりしない夢はいつしか現実へ塗り替わっていく。ありもしない夢より、そこにある現実を、わたしは受け入れなければならない。


 無事高校生になって時は巡って、季節は秋になった頃。

 この辺はイチョウの木やモミジなどが多く、紅葉を見に大勢の旅行客が観光地に現れる。わたしたちの旅館でも普段よりお客様の出入りは激しい。それでも、小さな旅館である以上普段より多いだけで周りと比べたら数は少ないのは明らかだった。

 そんないつもより忙しい仲居としての業務をこなしていると、不思議な予約はやってきた。

 インターネットというのは便利だ。なにせどこからでも情報を書き込んだあと、ボタン一つで光を超えて、わたしたちの元に伝わるのだから。


 それが例え地球外、宇宙からやってきた予約だったとしても。


「太陽系 第4惑星 アウストラレ高原地区……なんだこりゃ」


 最初はイタズラかと思った。でも調べてみたらちゃんとそこに人が住んでいて、そこの人からの予約だった。

 その "人" というのが、宇宙人だというのだけども。


 ◇


「今日から2日間お世話になります!」


 予約当日。わたしたち現れたのは年端も行かない少女だった。

 あれ? でも予約表には120歳って書いてあった気がする。わたしが想像していたのはもっとしわくちゃのおばあちゃん。火星にお住まいだから120歳でも割と元気でいるという設定だったのだが、それは間違いだったのかな。


「その。失礼ですが、本日16時にチェックイン予定のネリネ様、でお間違いなかったですか?」

「あ、そうだった。地球人には若い姿で見えてるんだっけ。見た目は12歳だけど、宇宙年齢はちゃんと120歳だよ」


 うちゅうねんれい? 聞いたことのない単語だった。後から調べてみたら、ちゃんとそのような概念があるらしい。どういう基準で計算されているかは、わたしの頭では分からないが、きっとわたしよりもずっと年上なんだろう。


「ではお荷物はこちらで預かります。お部屋にご案内いたします」

「ありがとう!」


 甘くて高くて、くすぐったい子供の声が耳の中に響く。

 確かに可愛い女の子だった。年上を " 女の子 " と表現することはさておき、相手はお客様だ。

 例え、わたしが今まで見たこともなく、物語の中でしか見たことのない桃色の髪の毛が綺麗だったとしても。

 女の子らしくぱっちりと大きくて丸っこい瞳が、わたしを見ていたとしても。

 火星という過酷な環境で育ったとは思えないほど、真っ白で触れば柔らかそうな肌に興味をそそられても。

 相手はお客様だ。仲居ごときがジロジロと見ていいはずがない。今は仕事なんだから。


 ギシギシとやや古い木の床を踏みながら、お客様を目的地であるお部屋まで誘導する。

 今はお仕事中だ。だから後ろの宇宙人さんからの視線には絶対に振り向いてはならない。イザナギとイザナミの話みたいな話を想像して、少し恐ろしくなってしまった。

 実は可愛い女の子としての姿が仮の姿で、この地域一帯を自分の胃袋に収めようとしている侵略者なのかもしれない。

 本当はピンク色の髪は肉塊の一部で、今からわたしを頭の触手で食べようとしているのではないか、と変なことを考えたら、不安で不安で仕方がなかった。

 だからちょっとだけ。ほんの少しだけ立ち止まって振り返ってみることにした。これは猫を殺す好奇心。

 これで食べられたら、きっとわたしが最初の犠牲者だろう。お母さん、お父さん。先立つ不幸をお許しください。先にあの世で待ってます。


 恐る恐る振り返ってみる。宇宙人はぱっちりとした瞳でわたしの顔を見ていた。


「ど、どうかなさいましたか?」

「仲居さん、綺麗だなーって」

「へ?!」


 人生で一度も言われたことのない言葉だった。

 というか、面と向かって " 綺麗だ " なんて言われることはおおよそ普通の人には経験がないと思う。

 でもこの子は確かにわたしの事を見て言った。わたしだけを見て、言ってくれた。


「地球の大和撫子は美しいって仲間内から聞いてたけど、こういうことだったんだね」


 心の中でたらしとつぶやいておいた。綺麗だと思っても、臆面もなく口に出すのはちょっと違う気がする。そういう面でも、この子は宇宙人なのかもしれない。

 嬉しくなかった、と言えば嘘になる。こんな可愛い子に褒められたのだ。だったら拒む理由はない。これがご年配の方だとか、中年男性だったら、お世辞かセクハラになるだろう。

 まぁ、その。……やっぱりおだてられると思ったら冷静になれた。きっとこの子もお世辞だろう。なんせ120年以上は生きているのだから。


 だからマニュアル通りの仕事はする。お客様をお部屋に案内して、荷物を置いて。それではごゆっくり、と半ば固定化されたセリフを呟こうとした瞬間だった。


「ね。一緒に出かけない?」


 ◇


「おかあ……女将、どうしましょう……」

「なるほどねぇ」


 宇宙人さん、もといお客様にお出かけに行かないか、と誘われたわけでして。

 流石にわたし1人じゃ判断しかねる内容だったので、お母さんである女将さんに相談してみたところ……。


「お客様のお望みは叶えないといけません」


 と、即答されてしまった。


「で、でも旅館のこともあるし……」

「あなた1人いなくても、回りますよ。たまには大人に頼りなさい」

「うぅ……」


 思わず情けない声で唸ってしまった。

 なんというか、あの子……じゃなかった。あのお客様の考えていることが不鮮明で少し怖かったりする。

 ただでさえ宇宙人なんていうわけの分からない生き物なんだし、その思考も得体が知れないのは無理もない。

 でも女将の命令は上司の命令。上司の命令は、絶対。なのでその件の宇宙人さんと一緒にお出かけに行くこととなった。


「仲居さん、お名前は?」

「え?」

「名前がないといつまでも仲居さんって呼ぶことになるし!」


 わたしはそれでもいいんだけどな。所詮はお客様と仲居の間柄。他人は他人なのだから、と考えていたところ不意に脇腹をぷすり。


「ひゃいっ!」

「あはは、面白い声ー」

「お客さ……」「ネリネ、だよ」

「ですが」「ネリネ」


 これは強要されている。間違いない。名前呼びをしろと言っているみたいだ。

 お客様に不敬にならないのかとか、逆に名前で呼ばないとそれはそれでお母さんに怒られそうとか、ちょっと気恥ずかしさとか。そんなのがいろいろまぜこぜになって、どうしたらいいか分からなくなっている。

 やっぱり、宇宙人というのはよく分からない人だ。

 目を輝かせながら、こちらに見上げているし。……まぁ、恥ずかしささえ除けば。うん、不敬に当たらないと思いたい。


「ネリネ、様」

「呼び捨て!」

「流石にそれはできません!」

「じゃあさん!」

「……ネリネ、さん」

「よろしー!」


 ニッコリと笑うその姿はなんとなく太陽を思い出させるものだった。夏のギラギラとした太陽ではなく、かと言って冬の雪を溶かすようなものではない。

 春の太陽の暖かさが眠気を誘うような、わたしの心を溶かしてしまうような、そんな。そんな……。素敵な笑顔。


「じゃあ名前」

「えっと……」

「さんはい!」

「……あかね、です」

「じゃああかねちゃん! 一緒に行こう!」


 お母さん。いえ、女将。わたしはもうダメかもしれません。

 何故ならお客様に名前を教えて、あまつさえお出かけしてしまっているのだから。


 ◇


 わたしたちは今、旅館から外に出て、山の中の散歩道を歩いている最中だ。

 意外にも体力があるのか、その小さい身体で階段を二段飛ばしたり、葉っぱに向かってジャンプしたりして遊んでいる。

 やっぱ宇宙人だからなのかな。わたしがもし120歳になっていても、同じような真似は到底できそうにない。


「すごいね、紅葉!」

「えぇ、そうですね」


 正直、この景色は見飽きていた。生まれた頃からずっと見ている秋の景色。小学生の頃ならいざ知らず、高校生になっても変わらぬ景色には嫌気がさす。

 それにこの辺は自然しかない。行楽地としては有名だという話だが、裏を返せば都会のような喧騒も、ショッピングエリアも、フードエリアもない。街へ行くにはバスしかないし、時間もかかる。わたしにとっては、この上なく苦痛だった。


「……楽しくない?」

「いえ、そんなことは」


 歩くのが遅いわたしの方に駆け寄ってきて、またもやこちらを見上げる。

 でも今度はわたしの事を見透かすような、本当か嘘かを見抜くような、そんな120歳相応の瞳。

 とっさに目をそらして、そして後悔する。これじゃあまるでわたしがやましいことがあって、嘘をついているようじゃないか。

 今度の笑顔は、優しく包み込む母のような、心にそっと触れる笑みだった。


「ちょっと喋ろっか」

「………………」


 大変気まずい。隠し事をしていた子供が母親にバレてしまったような、そんな後ろめたさ。

 身長はわたしの方が上なのに、この上なく萎縮してしまって、今では関係も逆転してしまっているようだ。


「あかねちゃんは、この場所は好き?」

「……それほどでは」


 わたしは正直に言った。言うしかなかった。

 さっきも嘘をついた手前、もう同じ嘘は通用しない。だから心の根っこを出会って数十分の彼女に曝け出してしまうのだ。


「生まれてからずっと、こんなところで過ごしてきましたから」


 お客様にこんな本音をつぶやいてしまうわたしは仲居失格だ。

 わたしの心が未熟だったからか、はたまた彼女の包容力が今まで出会ってきた誰とも違う感覚だったのかは分からない。

 でも、少しはこの鬱屈した感情を言えるような相手が欲しかったのも事実だ。


「こんなところ、家の手伝いじゃなかったら……」

「そんな事ないよ。ここは素敵な場所だよ」


 お世辞だと思うけど、そう言ってくれるのは嬉しさ半分、あなたもそういうことを言うんだ半分。

 素敵な場所であれば、この一生牢獄に閉じ込められたような感覚には絶対にならないと思うんだ。少なくとも、わたしはそう考えている。

 きっと外の世界はここよりも広くて、綺麗な場所なんだろう。ここよりも、鮮やかで、美しくて。

 ふと気になった。宇宙人さんは、どんな生活を送っているんだろうか。わたしとは違う世界から来た、別の惑星から来た彼女は、どんな綺麗な場所を知っているんだろうって。


「お客……ネリネさんは、どうなんですか?」

「どうって?」

「自分の住んでいる場所、素敵な場所だと思いますか?」

「んんー、難しい質問だね」


 腕を組んで、渋い顔でうんうん唸る。そんなに困ることだろうか。いや、この質問を自分にされて困っていたわたしが言うのも変だが。


「一応住んでるところは間欠泉が吹き出てさ、火星の中でも水が多くて結構栄えてたりするのよ」

「間欠泉、ですか」

「そ。これでも昔は地球でも研究が盛んな場所だったんだよ」


 それはさぞ美しい場所だろう。きっとそこは水に溢れた素敵な都市で、間欠泉が不定期間隔で吹き出たりして、他の人が聞けば憧れの景色とも言えるだろう。


「でも私にとってはイマイチかな。あかねちゃんみたいに地元をよく思わない感じだよ」

「そんな事ないと思います。想像したら素敵な場所だと」「思ったでしょ?」


 いつの間にかわたしの懐に入った彼女は、いたずらっ子のような顔でこちらを見る。

 どうしてそんな顔をするんだろうと考え、そしてすぐに思い至った。

 そっか。さっきのわたしと同じなんだ。


「なんだっけ、あのーあれ」

「突然なんですか」

「ほら、日本のことわざ。隣のなんとかはなんとかって」

「隣の芝生は青く見える、ですか?」

「そうそれ! それと同じだよ!」


 言われてみれば、そうなのかな。わたしは他の場所に行ったことがないから分からないけど、宇宙人さんの、ネリネさんの故郷に憧れを抱いたように、わたしのこの場所にも彼女は憧れを抱いたのかもしれない。

 わたしは自分の居場所を陳腐だと思っていた。

 でもネリネさんは、他のお客様はこの場所に夢を馳せて、この場所へやってくる。

 それこそ隣の芝生が青く見えるのであれば、隣の芝生を見ているわたしは、自分の居場所をどう認識すればいいのだろう。


 ◇


 その夜、旅館へと戻ってきていたわたしはと言えば、何故かネリネさんの客間にいた。

 なんで。わたしが知りたい。でもさっき帰ってきた時に女将に「あなたはお客様のそばにいなさい」などと言われ、半ば強引に仕事を追い出されたので、きっとその辺が影響しているのだろう。

 しばらく考えても、やはりそばにいろという理由が分からない。


「食べないの?」

「あ。考え事です、気にしないでください」


 焼き魚の小骨を丁寧に取りながら、お箸で白身をつまんで口の中に入れる。

 白身を噛み締め、味わいながら食べている彼女の姿は、日本食を初めて食べる外国人のように見えて、可愛らしく思える。

 お箸を上手に使っている時点で、本当に外国人か? と疑問に思う。あ、外国人じゃなくて宇宙人だった。


「悩み事かー。お酒飲む?」

「え?」


 ネリネさんは手元にあったビール瓶とコップを手に持ち、わたしの方へ寄ってくる。


「ま、待ってください! わたしまだ未成年!」

「あー、そっか。地球じゃ未成年バツだったか」


 逆に宇宙人は未成年でもお酒大丈夫なんだ。アルコールに耐性があるのかもしれない、地球人と違って。

 あれ、でも酔わないのなら何故お酒を飲んでいるんだろう? そもそも酔うという概念はあるのだろうか。

 やっぱり宇宙人は分からない。


「じゃあ、あかねちゃんにはこっちのコーラかな」

「なんで持ってるんですか」

「コンビニで買ったんだ。はい」


 チャポチャポチャポとコップの中にコーラを注ぐけど、焦げ茶色の泡が先にコップを支配して、縁から溢れんばかりに出ていこうとしている。

 それは危ないと、すれすれのところでペットボトルの注ぎ口を上に傾ける。プシューと聞こえる泡が徐々に減っていき、泡がなくなると、コップの3分の1しか注がれていなかった。ネリネさんは少し頬を膨らませた。


「炭酸ってこういう所あるから嫌い」

「あるあるですね」


 今度は慎重にコップの中に注いで、わたしにコップを渡してきた。

 今もお仕事中だから飲み物とかは飲まないようにしたいのだけど。

 そうしたら今度はわたしの方に空いたコップと、ビール瓶を渡してくる。あぁ、そういうこと。

 たまにビールを注いでこさせようとするお客様もいるので、実は慣れていたりする。

 グラスの1/3くらいまで勢いよく注ぎ、泡で蓋をしたら、今度はゆっくりとグラスに沿って注いでいく。

 こうするとビールと泡の割合がちょうどよく、飲んだ時の喉を通る爽快さが維持できるのだとか。ネットで調べたことなので、わたしはその爽快さ、というのを分からないのだが。


「すごーい! あかねちゃん上手いね!」

「まぁ、こういうこともお客様に言われるので」

「じゃ、かんぱいしよう!」


 コップを突き出して、彼女はわたしに笑顔を向ける。一緒にコップをぶつけてくれることを信じて疑わない子供のような笑顔。

 遠慮していても、彼女の笑顔が消えることはない。飲め、という無言の圧力が顔からにじみ出ていた。うぅ、飲みますよ……。


「じゃあ出会いを祝して! かんぱい!」

「か、かんぱい……」


 お客様のご要望は基本的には絶対なのだ。だからこういうことも断れない。

 掛け声とともに、コツンとビールとコーラがぶつかりあう。液体が跳ねる様子は、ネリネさんが喜ぶ姿と重なってみえる。

 花が咲いたみたいな笑顔をわたしに向けてから、コップを口につけてごくごく。

 並々盛られた黄金色の液体は、ネリネさんの胃の中に消えていき、最後には白い泡がコップにこびりついているだけだった。


「ぷはー!」

「ネリネさん、これお酒ですよ。悪酔いしませんか?」

「んー? しないよ。だって酔わないし、私」


 そ、それはどっちの意味でなんだろう。お酒に強いのか、はたまた概念的に酔わないのか。

 コーラを飲む手を止めて、気になった質問を口に出してみることにした。


「地球のアルコールじゃ酔えないってこと。度数が高いテキーラのショットでも、地球で言うほろ酔いぐらいだよ」

「へ、へー」


 そのほろ酔いレベルがよく分からないけど、とにかくお酒にはめっぽう強いということだろう。

 じゃあ度数が比較的低いビールだったらもっと酔えないのでは。

 うちにテキーラクラスのお酒はないと思うけど、そこまで行かなくても日本酒は用意したのに。


「あ! 今、酔わないのにとか思ったでしょ」


 全力で顔を横に振る。その様子が丸わかりだったのか、あははとお腹を抱えて笑っている。なんて失礼な。ちょっぴり思っただけですし。


「地球のお酒は美味しいからね。なんというか、こう。雰囲気を飲んでるの」

「雰囲気、ですか?」

「うん。いい気分とか夢心地とか、そういうのも含めてお酒なんだよ」


 そんな情緒だけで飲むのか。美味しいから飲む。雰囲気も含めて飲む。

 感覚は分かれど、理解は少しだけし難い。


「お酒って美味しいんですか?」

「私は美味しいと思うよ。周りからは地球のお酒より火星のお酒がいいっていう子いるけど」

「そうなんですか?」

「うん。でも私からしたらただ度数が高いだけの消毒液だよ」


 ふーん、意外とグルメなんだ。注ぎ足し注ぎ足しながら、これで4杯目。まったく顔が赤くなる様子はないけど、座椅子に深く腰掛けて一息ついた。


「でも今日は特にいいお酒に会えた。もう1杯注いでもらえる?」

「っ……はい」


 その表情は昼間見せていたような母親のような温かみや子供のようないたずらごころのある顔ではなく、春の暖かみで雪が溶けたような柔らかさ。

 へにょっとした、愛らしくて可愛げのある表情が、わたしの胸を貫いた。

 とろけ顔、というべきだろうか。その笑顔はわたしが今まで見てきた彼女の表情の中でも強く印象に残るもので。

 もっと見たい。もっととろけさせたい。お客様なのに、自然とビール瓶を傾けていた。

 どうして? なんで? 分からない。分からないけど、これが雰囲気を飲む、ということなのかな。


「いい夜だね」


 それは、わたしがいるからですか?

 ふと、頭によぎった疑問は頭を軽く振って払拭する。


 女将に言われて仕方なくだった宇宙人さんとのお相手は、わたしの興味を引かせるには十分なほど心を溶かしていた。

 分からないを分かりたい。

 彼女のとろけた顔でわたしを見て、口説き文句のようなことを言う彼女の心の内側を。お酒の味と一緒に。


 ◇


 わたしには夢はない。その夢は必ずここを継ぐことになってしまうから。

 わたしには希望がない。その希望は鬱屈した今に消えてしまうから。

 わたしには愛情がない。その愛情をわたしは知らないから。


 なにもないと思っていた。

 わたしにはなにもなく、ただ平凡な日常を怠惰に過ぎ去っていくだけだと思っていた。


 でも、ひょっとしたら違うのかもしれない。

 隣の芝生は青く見えるように、わたしがいる場所にもわたしの知らない場所があって、感情があって、景色があって。

 それらを強く思うことで、夢や希望、愛情なんてものが出来上がるのかもしれない。


 なんて、流石に言いすぎかな。

 実際は夢なんて大それたものはこの世にはなく、希望なんて光るものは太陽ぐらいだけで、愛情はいつの間にか拾ってるものだったら、ロマンを感じなくて、少しがっかりだ。

 それが現実で、それが今で、それが過去。

 過去は変えられない。今も今のまま。現実は非情。

 なら、わたしはどこを変えていけばいいのだろうか。


 今日のことを思い出しながら、布団に潜り込む。

 いろんな事があった、なんてのは嘘。だって少なすぎる。実際は半日だけの関係で、明日には消えてしまうようなか細い繋がり。

 でも、わたしの認識を改めるには十分だった。

 わたしの意識外からやってきた宇宙人は、鬱屈した今からわたしを連れ去りに来た。

 可愛らしくて、母性があって、ふやけた顔をして、小さいあなたがわたしを救ってくれたって本気で思ってる。


 お客様なのに、明日にはいなくなってしまうのに、当然のことなのに。

 それがとても心苦しい。麻痺していた感情が痺れをなくして、感覚を蘇らせてくる。

 別れは怖い。寂しい。名残惜しい。お客様1人にどれだけ感情移入をしているんだろう。

 それでも、わたしを連れ出してくれた宇宙人さんには、寂しいと思わせるだけの卑怯で卑劣で、優しい洗脳をさせてくれたんだ。

 わたしには何がお返しできるだろう。ふと、彼女のことを思い耽る。

 わたしができること。わたしが、お返しできること。

 小さく考えて、よぎった言葉を空に吐き出す。

 うん、そうしよう。ううん、そうしたい。明日言おう。絶対言う。

 仲居だとかそんな事ひっくるめて、親しくなった相手へ贈りたい言葉がある。


 出会いがあれば、必ずしも別れがある。偶然と必然。偶々と必ず。

 宇宙人さん、ネリネさんとは朝から他愛ない話をしていた。

 主に宇宙のことや綺麗だった景色のこと。ここ以外何も知らなかったから、1つ1つの彼女の思い出が光り輝いて聞こえた。

 わたしも旅をすれば、もっといろんな景色を知れるのかもしれない。

 IFのわたしを考えて、少し嘲笑した。そんなありえないことを考えても、現実はどうしようもならないから、今はネリネさんのことだけを考える。


 帰り支度ができて、彼女が退館する。

 寂しさを言葉に、顔に出さないように引き締めながら心を固くしていたら、ネリネさんがおどけた調子で話しかけてきた。


「ねぇ、あかねちゃん」

「はい、なんでしょうか?」

「なにかなーい? ほら、声掛けとか」


 しなやかで、風になびく姿が美しいピンク色の髪の毛をかきあげて、耳に手を当てる。

 「んー?」なんて少し挑発気味にわたしを煽る姿は見た目相応で可愛らしく思えた。


「あー、えっと……」


 別れの言葉はちゃんと用意したはずだった。用意しておいてこの体たらく。接客業ながらお恥ずかしい限りである。

 でもこういう事を言うのは、すごく勇気がいる。女将もそばに居て、従業員総出でネリネさんの旅立ちを祝しているんだ。

 わたしだけ、その。残ってほしいだなんてわがまま言えるはずもなく。

 違う。わたしの言いたいことはそうじゃない。わたしは。わたしは、贈りたい言葉があるんだ。


 しばらく恥ずかしさと羞恥心にこの身を焦がして、耐えきれなくなって、ようやく口に出した。


「わたし、ネリネさんと会って少し変われた気がするんです」


 彼女は勝手で気ままで、女将の命令が無かったらきっと関わることのなかった相手。

 でも彼女はわたしに景色を教えてくれた。知らないことを、教えてくれた。


「変わったって言っても、ほんのちょっぴりだけですが。それでも、わたしを変えるには十分だったんです」


 知らないことを知る、というのは目の前の景色が変わること。

 景色が変われば、今までいた場所ですら少しだけ色が加わり、鮮やかになる。

 灰色だけだったわたしの居場所に、青色を加えてくれた彼女には感謝の言葉しかなかった。


「ありがとうございます。わたしにも夢が出来ました」

「……それが何か、聞いてもいい?」


 子供の頃はちゃんとしていながら曖昧なくらいふわふわしている夢があった。

 旅館を大きくして、みんなに来てもらう、という夢があった。


 空を突き抜ける青い夢は、いつしかどんよりとした灰色の現実へと塗り潰れていた。

 そんな現実に、わたしは嫌気が差していた。どうしてわたしはこんなにも不自由なんだろう。ここに縛られているのだろう。と。

 でも、今は違う。今はネリネさんと出会って、その灰色の雲に少しだけ光が指す。

 夢は輝きをもたせるというが、わたしもそのイメージには賛成だ。

 光が射した場所にはわたしの旅館があって、居場所があって。そこで何をしたいのかが定まった。


「わたしはお客様が、ネリネさんが来る場所を守りたいって思いました。またお越しいただいて、そして一緒にお酒を飲みたいと。それが、今のわたしの夢です」


 クリクリとした目と小さな口を見開いて、驚きを隠せない少女がそこにいた。

 うん、その顔が見たかった。わたしはまだネリネさんの多くを知らない。知らないから知りたくて、また来てくれることを願った。それがわたしの夢だと語って。

 卑怯かもしれない。卑劣かもしれない。そんなほんの小さな願いが彼女を少しだけ縛っているのかなと、後悔したり、ちょっぴり嬉しくなったり。

 でも、また会いたい。また会って、今度は成長したところを見てもらって、昨日果たせなかったお酒を飲みたい。そう、強く思ったんだ。


 少女は目を、口を閉じて、しばらく物思いに耽けた後、優しい微笑みを傾けてくれた。


「じゃあ、約束だね」

「はい。4年後、またお越しいただくことを楽しみにしてます」


 膝を折り、彼女と目線を合わせて、右手の小指をネリネさんの前に差し出す。なんのことやら、という表情をする彼女にわたしは説明をした。


「日本では小指同士を絡めて、約束する風習があるんです」

「じゃあ風習には、沿わないとね」


 ネリネさんの小さくて柔らかい小指がわたしの小指に絡まる。

 こうして触れ合うと、子供みたいなふにふにと柔らかい肌をしてるなって改めて認識した。これで120歳なんだから、本当に宇宙人なんだ。

 わたしは復唱するように約束の魔法の言葉を口に出していく。


 指切りげんまん

           指切りげんまん


 嘘ついたらハリセンボンのーます


           嘘ついたらハリセンボンのーます


「「指切った!」」


 乱暴にではなく、優しく結ばれた指の感覚はしばらくしたら忘れるだろう。

 でも約束は絶対忘れない。約束した時の、あの笑顔は忘れない。


 だって、それが今のわたしの夢なんだから。

 4年後にまた会おう。その時は、一緒にお酒を飲みましょうね。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

仲居さんと宇宙人さん 二葉ベス @ViViD_besu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ