第56話 明陽川の戦い 七

 拓馬軍の別働隊三千は、一斉に川を渡ってきていた。陣城がもぬけの殻であることに気付き、本隊を救援すべく急いで川を渡っていたのである。

 そのため、順を追ってではなく全軍で同時に渡河し、対岸に上陸したときには横に長い横隊の形を成していた。

 それを見て、三郎様! と、舞耶は声をかけた。


「また、中央突破をなさいますか? 横に長ければ、一部を突貫するのは容易ですし、少数の我らが取れる手段は限られておりますから」

「うん、それもいいね」


 三郎がそう応えるが、言葉に力が籠もっていない。舞耶は不思議に思って三郎の顔を後ろから窺った。すると、三郎は目を見据えてじっと敵軍の様子を順に眺めているのである。

 舞耶は言いかけた言葉を飲み込んだ。


 ……三郎様は必死に考えておられるのだ、もっとも効果的な策を、皆に被害を出さずに敵を蹴散らしてしまう策を、今この場においても考えておられるのだ。その邪魔をしてはならない。

 某は、三郎様を信じる。


「あそこだ!」


 三郎が指しながら叫んだ。その先は、上陸した拓馬軍のうち、北の一団である。


「敵のあの一角に向かって突撃するんだ。ただし、突破をする必要はない」

「? 何故です?」


 すると、三郎は振り返って笑顔を見せた。


「突破をするまでもないからさ」






 拓馬軍別働隊のうち、北の一隊は他の隊よりも早く渡河を終え、すでに戦闘態勢を整えて戦場に駆け出していた。


「急げ! 鹿島の軍を救けてやるのだ!」


 隊の将が声を張り上げる。その声音からは苛立ちが感じられた。それは、味方が劣勢に追い込まれているという焦燥感から来ているものではなかった。足を引っ張る味方を救援しなければいけないという、侮蔑的な感情から来ていた。


 ……これだから、あのような若造に任せることなどなかったのだ。あの者は実績もないくせに口だけは大きいのだからな。それに、例の敵にまた奇策を用いられたら、どうするのだ。

 いや、どうせ、すでに奇策にあってるから、劣勢に追い込まれてるのではないか?


 そう考える拓馬の将、彼は三次川の合戦を思い出して、思わず身を震わせた。あのときの敗戦は、時を経た今でも悪夢としか思えなかった。

 その時、側近が声を上げる。


「殿! 敵の一団がこちらに向かってきております」

「なにい? いかほどだ?」

「は、およそ三百!」

「なんだ、小勢ではないか。そのような敵など、恐るるに足らん、構わず前進――」


 そこまで言って、将は一つの不安を覚えた。三百という数字に危険を感知したのである。

 もし敵が、記憶にある例の相手なら、ただの小勢などではない。


「待て、その一団の家紋は何か?」

「は、黒い鳥です!」


 将は戦慄した。黒い鳥の家紋なぞ、滅多に用いられるものではないのだ。該当するのは、一つしかない。

 それは、八咫烏やたがらすである。


「退却! 退却せよ!!」

「は、しかし!?」

「うるさい! 死にたくなければ、退却するのだ!!」

「ダメです、間に合いません!!」






 八咫軍三百五十と、拓馬軍別働隊のうちおよそ一千は正面から激突した。双方ともに前進しあっていたのだが、接触する直前、拓馬軍は浮足立った。

 なにせ、大将から退却命令が出たのだ。目の前に敵がいるというのに、戦わずに逃げろという命令を出されて、最前部は混乱をきたした。

 その隙を逃す三郎ではない。


「――突撃」


 三郎の下知に八咫軍が応える。三倍の敵に向かって臆することなく全力で衝突した。

 八咫軍の初撃は拓馬軍に痛烈な被害をもたらした。それは、人的な被害ではない、恐怖心による士気の低下という、戦場で最も忌避すべき事態であった。拓馬の将は声を張り上げた。


「引けーッ!! 戦うな、逃げろーッ!!」


 羞恥心もなにもない。いや、敵の実力を評価していたという点では、まだ利口であったと言えようか。

 拓馬軍一千は最初の手合わせをしただけで、早々に退却を始めた。その逃げようは手にした得物を放り投げ、脇目も振らずに一目散に川へと飛び込む有様であった。


「三郎様、追いますか?」


 舞耶が敵の様子に半ば呆れながら訊く。


「いや、いい」


 そう答える三郎は、やけに落ち着いていた。


「敵は、なぜ戦いもそこそこに逃げ出したのですか? 兵数は明らかに敵のほうが多かったではありませんか」

「ああ、彼らは、拓馬本家の軍だからね」


 三郎は見抜いていたのである、この敵軍が、拓馬本家から長政に貸し与えられた軍であることを。

 鹿島家は拓馬家の一家臣である。長政が今回自軍として動員していたのは三千であり、拓馬家より二千五百の軍を貸し与えられていたのである。長政は、数が少なく激戦になることが予想される本隊を自らの軍で固め、残りの五百と合わせて拓馬本家の軍をすべて別働隊に編成していたのである。拓馬本家の兵たちは長政の命令にこそ従っていたものの、長政に対する忠誠心はなかったのだ。

 それも当然の話ではある、彼らは俸禄を鹿島家からもらっているのでなく、拓馬家からもらっているのである。ましてや、一家臣の下で働くなど、気持ちのいいものではなかった。現代で言うなら、親会社の社員が、子会社の社員の命令に心地よく従えるか、ということである。

 拓馬の兵たちは、ここで命を投げ売ってまで勝利を得ようという気は毛頭なかったのだ。

 そして、拓馬の兵たちは三次川を知っている。あのときの痛い敗戦は彼らの心に深く刻まれているのだ。八咫という言葉を耳にして、思わず恐怖を抱いてしまうほどに。


「別働隊の旗印を見ていて、南の一団だけが異なっていることに気がついたんだ。あれが、鹿島家の軍で、残りは拓馬本家から与えられた軍だと、わかってね。鹿島の兵は戦意が高いけど、拓馬の兵はその限りじゃないだろうから、まずは戦いやすい方から戦おうと思ったんだ。まあ、予想以上の戦果だったけどね」


 三郎は頭を掻いた。半分は呆れと、もう半分は照れ隠しだった。


「さて、敵はまだ残っている。隣の一団も拓馬本家の部隊だ、同じ様に攻め立てるぞ」






 八咫軍は逃散した北の一団を追撃せず、そのまま南に転進して中央の一団に襲いかかった。

 中央の一団は北の一団と同じく拓馬本家の軍千五百である。北の一団が逃げていくさまを目の当たりにして動揺が走っていたところへ、八咫の旗印を見た途端にそのほとんどが退却を始めていた。もはや踏みとどまって戦おうする者は誰一人おらず、こちらも槍を交えることなくもと来た道を逃げ帰ってしまった。

 残るは南に位置する鹿島の軍五百である。彼らはさすがに抵抗する構えを見せたが、兵力差はわずか百五十。あの鬼秀勝と並び称され、南斗軍の双璧と謳われた八咫軍が、ここに来てその真価を発揮する。

 抵抗しながらも本隊を救いに前進しようとする鹿島の軍を、見事に足止めすることに成功したのだ。

 ここに、長政が組織した別働隊三千は、その戦闘力を完全に失ってしまったのである。

 さらにこの時、一つの報せが戦場に届いた。


「三郎様! やりました!」


 舞耶が色めき立つ。


「岐洲城が、落ちました!」


 それを聞いた三郎は、思わず手を叩いた。


「やったか! これでこの戦は終わりだ!」


 ……京も秀勝殿もよくやってくれた! ああでも、また借りを作ってしまったな。あの人達は借りを作るとうるさいからな、帰ったら大変だ。


「よし、舞耶、皆に伝達。――全軍、逃げろ」

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