第51話 明陽川の戦い 弐

 拓馬家の六度目の渡河が開始する。それを眺めて、三郎は頭を掻いた。


「やっこさんもしつこいなあ。これはもう我慢比べだな」


 拓馬軍が盾を掲げながら川へと入っていく。だが、味方が矢を打ち掛けないのである。


「うん、どうしたんだ? まだ矢は残ってるはずなんだけど……」


 三郎の頭の中で警報が鳴り響く。そうして、敵が川の半ばまで渡って、ようやく矢を放ち始める。


「おいおい、まさか!」


 しまった、こっちが先に我慢の限界が来たか! このままでは敵の思う壺だ!


「舞耶! いるか!」

「はい、ここに!」


 舞耶がこちらに駆けながら叫ぶ。ちょうど、伝令から戻ってきたところだった。


「すまない、もう一度、あそこに行ってくれ!」

「え、しかし、お伝えはしましたが」

「あのバカは聞く耳を持っていないらしい!」


 三郎は珍しく怒りを顕にしていた。もちろん、舞耶に向けられたものではない、忠告に耳を貸さず、部下を道連れに自ら死を選ぼうとしている将に向けられたものだ。


「彼らを救って欲しい、今ならまだ間に合う」


 三郎の真剣な眼差しに、舞耶は即座に反応した。承知! と、もう一度駆けていく。


 ……間に合ってくれ。


 三郎は祈るように河岸を見つめた。






「今だ、突撃ィーッ!!」


 ああああああああ!! という咆哮と共に、南斗軍が一斉に柵から飛び出す。それまで耐えてきたエネルギーを爆発させて、川中で戸惑う拓馬軍に襲いかかった!

 虚を突かれた拓馬軍は、盾を捨てて我先にもと来た岸へ逃げ出す。その醜態を見て南斗軍はさらに追いすがった。逃げる敵を後ろから追い立てることほど、人間の加虐心を刺激するものはない。目の前に獲物が無防備な姿を晒しているというのに、見過ごして我慢するなんてことは、よほどの理性を持った人間にしかできない。

 南斗家の将は最低限の理性を持っていた。


「これ以上はイカン! 深追いするな、戻れ!!」


 そう叫んではみるものの、盛りのついた獣は耳を貸さない。


「八咫殿のご命令にござる! 戻られよ!」


 将は元いた河岸を振り返る。そこで、姫武将が叫んでいた。


「わかっておる! だが……」


 そこへ、向こう岸の上に拓馬家の将が躍り出た。


「怖気づいたか、南斗の連中!」

「なんだと!?」

「また、柵の中へ帰ろうというのか、この臆病者どもが!!」

「ほざけ!」人の気も知らずに……!

「貴様らの大将は穀潰しの軟弱者の引きこもりだとのもっぱらの噂だが、大将がそうならその下の貴様たちもまったく同じだな!!」


 つられて拓馬家の兵たちが一斉に笑い出す。


「ぐぬぬぬぬぬぬぬぬぬ、許せん!!」


 南斗の将はプッツンと切れた。

 三郎本人はなんと言われようとまったく気にしないのだが、彼らは普段三郎に対して陰口を叩いていた側なのである。自分が悪口を言われることに慣れていなかった。


「何している、早く戻って――」


 舞耶の叫びを、将は遮った。


「うるさい! 構わん、奴らを討て! 南斗の軍をナメるなあああああああああああ!!」


 猛り狂った一団が、ついに東岸へと上陸した。






「そうか、敵が動いたか」


 鹿嶋長政は報告を受けて、鼻で笑った。


「これだから、無能は救いがたい」


 陣城にずっと立て籠もられては、力攻めをするしかなかったのである。敵を退けることは出来ても、こちらにも甚大な被害が出ることは確実だった。

 長政としては、そのような愚行を起こす道理がなかった。なにせ、岐洲城がこちらの手にある限り、南斗軍に逃げ道はないのである。あえて、強硬策を取り短期間で決着を付ける必要がなかった。

 相手が挑発に乗ればよし、また乗らずに籠もっていても、そこに釘付けできればいい。そのための策は用意していた。

 もっとも、相手はこちらにとって最良の選択をしてくれたが。


「すべては手筈通りだ。……準備は良いな」


 長政の問いに家臣が跪いて答える。


「一同、配置に付いております!」


 長政は短く頷いた。


「無能共に己の存在価値がいかほどなものか、思い知らせてくれる。さあ、来い。今、楽にしてやる」






 上陸した南斗軍およそ六百は逃げる拓馬軍を追走していた。

 そうして、明陽川の東に拡がる平原へと進む。低木草が生い茂る荒れた土地である。人家は近くに見当たらなかった。


「殿、あそこに敵軍が!」


 将が指されたほうを見やると、北の林に拓馬軍が潜んでいるのが見えた。だが、なにぶん距離がある。


「構うな! あそこからでは弓は届かん! 前の敵を追うのだ!」


 そうして、林の前を横断しようとした。


 ――ついに、この時がやってくる。






「無知であることと、無能であることは、必ずしも一致しない。無知を知れば、すなわち己の不足を知ることになる。無能は、己に不足がないと思いこんでいることが、最大にして最悪の罪なのだ」


 長政は林の中で軍配を掲げた。彼の前には、前後二列に兵が並んでいる。


「奴らの不幸は、無知であることではない、己の無知を知らない無能であることだ」


 無知で無能な南斗の軍が目の前を横切る。


「その不幸にまみれた己等の生を救ってやる。喜べ、これは極上の死だ。――放て」


 長政が軍配を振り下ろしたと同時、戦場に人工の雷鳴が響き渡る!

 長政直属の鉄砲隊、五百丁が一斉に火を吹いた!!






「なんだ、何が起こった!?」


 南斗の将が叫ぶ。爆音が響いたかと思えば、周りの兵たちがバタバタと倒れだしたのである。矢が飛んできたわけではなかった。礫のようなものが、目の前を掠めていった。


「これが、秀勝殿が言っておられた新兵器だと言うのか!?」


 あの『鬼秀勝』が敗北したのには理由があるのだ。それを過小評価していたことが過ちであった。


「止まるな! 駆け抜けろ! ここにいてはやられる!」


 将が指示を出したと同時に、二度目の銃声が鳴り響く。将の意識はそこで途切れた。

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