第5章 戦国の英雄
第50話 明陽川の戦い 壱
天寧二十年十一月十一日の早朝、
戦場に動員された兵数は、三郎率いる南斗軍が四千五百(八咫軍三百五十を含む)、一方の鹿嶋長政率いる拓馬軍が五千五百と、やや拓馬軍が優勢であった。なお、拓馬軍には虎の子の鉄砲部隊五百が含まれ、さらに岐洲城に拓馬家へ寝返った鎌瀬満久率いる千五百が控えている。
これに対処するため、三郎は明陽川の本流と支流に東と北を囲まれた小さな丘に陣を構え、両面の河岸に柵を構築していた。三次川の戦いでも採用した
一方の長政は夜の内に、南斗軍の陣に対して明陽川の本流を挟んだ向かい側、東の平原に着陣。
両者は暫く睨み合っていたが、夜明けと共にまず長政が動いた。
拓馬軍の先鋒およそ三百が、まだ朝霧が立ち上り視界の効かぬ中、南斗軍が待ち受ける明陽川の河岸へ攻めかかったのである。
チャプチャプ、と水を跳ねる音が静かに連続する。
「音を立てるな! 敵はまだ気付いておらん、これが先制の好機である!」
拓馬軍の先鋒を預かる将が声を落として指示する。
明陽川の水深は浅い所でおよそ五十センチ、膝上まで浸かってしまう深さである。さらに、十一月の早朝と言えば水温は十二度前後である。凍えて震えても仕方ないが、開戦を目の前にして心を昂ぶらせている兵たちは、あまり冷たさを感じていない。
明陽川の川幅およそ六十メートルの半ばまで渡った時、ようやく対岸の柵が見えてきた。
ここまで来れば、もう敵は目と鼻の先である。
「よいか、皆の者! 我らが一番槍だ! かかれェーッ!!」
将は先頭を切って川岸へと駆け出した。
おおおおおおおおおおおおおおおお!! という雄叫びとともに配下の兵たちが続く。
そうして土手をよじ登ろうとしたときだ、
「待ちかねたぞ、拓馬の衆!」
南斗家の将が立ちはだかった。
彼の前には、整列した弓隊が柵の合間から矢先を出して待ち構えている。
「八咫殿のご指示通りだ! よくもここまでのうのうと来れたわ! 者共、射てィ!!」
拓馬軍に雨の如き矢が降り注ぐ!
戦いの緒戦は明陽川の本流を挟んでの攻防だった。
西岸に構築された柵の内側に籠もる南斗軍に対し、拓馬軍の三百前後の部隊が攻めかけては後退し、また別の部隊が寄せかけることを繰り返したのである。
三郎が全軍に夜明け前から警戒をさせていたため、諸将は存分に応戦し柵が破られることはなかった。
だが、敵も無理を押して柵の中へ入ってこようとしないのである。少しでも被害を受ければ後退し、また別の部隊がやってくるのであった。
「やれやれ、困ったなあ」
三郎は戦況を見ながら呟いた。傍に控える舞耶が疑問を口にする。
「敵はなぜ強攻してこないのですか? これでは、一方的に敵が被害を増すだけではありませんか」
「やっこさんは我々が柵から外へ出ないことをわかってるんだ。……あれは挑発だな」
三郎が考えていたこの戦における戦術目標は、『時間稼ぎ』である。具体的に言うなら、南斗秀勝と大戸京が岐洲城を奪取するまでの時間稼ぎだった。
三郎はそもそも長政を打倒しようと考えていなかったのだ。岐洲城さえ落ちれば退路が拓けるのである、落城の報が入ればタイミングを見計らって撤収する気だった。
……今朝の内には落ちるかと期待してたんだけどなあ、思ったよりも手間取ってるな。
この少し前、岐洲城の近海では鎌瀬満久が呼び寄せた熊瀬水軍と大戸水軍の間で激しい攻防戦が繰り広げられていたのだが、三郎はそれを知らない。
「舞耶、絶対に柵から出ないように諸将に徹底させてくれ。それを守っている限り、負けることはないんだから」
我ながら慎重に過ぎると思うけど、これが一番確実なんだ。なにせ、『可能な限り多くの兵を生存させて勢良国に帰還する』ことが、戦略目標だからな。
戦略を実現するために、戦術がある。三郎はその大原則に沿って最善策を取ろうとしていた。
だが、それを理解しようとしない者もいる。なにせ、世の中はバカばっかである。
拓馬軍が五度目の渡河を仕掛ける。だが、すでに霧も晴れ、その姿は南斗軍に丸見えであった。川の中ほどまで進む前に、散々に矢を打ちかけられる。拓馬軍も盾を掲げて前進を試みていたが、南斗軍の斉射が凄まじく、対岸に辿り着く前に引き返す有様だった。
「殿! 敵は無防備にも逃げ帰っていきます! あれを襲えば必ず討ち果たせますぞ!」
川岸の守備を預かる南斗の家臣が言う。それを聞く将は苛立ちを隠せずに答えた。
「ええい、言うな! 柵から出るなというお達しなのだ、儂だって堪えておるのだ……!」
また新しい敵が来ます! と兵が声を上げる。
「殿! 兵たちも殺気立っております! 気を晴らしてやらねば、暴発しかねませんぞ!」
ううむ、と将は黙り込んだ。家臣の言うことも、もっともである。それに、自分だって戦いたい思いを抑え込んでいるのだ。繰り返しの作業ほど、人間の集中力を削ぐものはなかった。
そうだ! と、将が声を上げる。
「そうだ! 次の敵には川の中ほどを過ぎるまで矢を射つな! そうして油断して近寄った敵を一斉に射掛けるのだ! 恐らく敵は慌てふためいて動きが乱れるだろう、そこを狙って突撃するのだ!」
「おお、なるほど!」
「敵が敗退すれば、こちらはまた柵の中へ戻ればいい。川のこちら側で仕掛ければ、次の敵が来るまでに戻ってこれるわ!」
「さすがは殿! しからば、早速兵たちに伝えてまいります!」
「ウム、急げ!」
ククク、八咫殿でなくとも、これぐらいの策は思いつくわ! いや、もしかすると、八咫殿ですら想像だにしない妙案かもしれぬな!
将はほくそ笑んで踏ん反り返った。そうやって驕るところが浅はかなのだと気付いていない。
そこへ、凛とした声が将の背中を刺す。
「伝令にござる!」
舞耶であった。
「総大将のご指示です、『何事があっても、絶対に柵から外に出ぬように』とのこと」
「承知しておる! 耳にタコが出来るわ!」
「ゆめゆめ、お忘れなきよう!」
将は舞耶を手で追い払った。舞耶は一瞬顔をしかめたが、その場を退いた。他の将へも伝えに回る必要があったのだ。
舞耶の姿が見えなくなってから、将は呟いた。
「……フン、わかっておるわ。柵の中で守りを固めておればよいのであろう? 敵を蹴散らした後でな!」
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