第42話 明洲原の戦い 弐
八咫軍は長政軍の横っ腹を突いた。いや、突こうとした。
だが、長政軍はそれに即座に反応した。まるで、八咫軍の突撃を予測していたかのように。そして、その行動はこの戦場にいる誰もが驚くものであった。
南斗軍中央部は壊乱状態にある。反撃に出れたのは八咫軍五百のみなのだ。ここで、長政軍がさらなる攻勢をかければ、南斗軍は壊滅してもおかしくないのだ。
だが、長政の下した命令は、予想外のものであった。
「――頃合いか、引け」
それは全軍撤退であった。
「三郎様! 敵が!」
「ああ、見事だ、鹿島長政」
三郎は思わず頭を掻いた。突撃しようとした矢先、その敵が退いていったのである。肩透かしを食らった八咫軍は、整然と後退する長政軍を見送るしかなかった。
「あのまま戦ってくれれば、良かったんだけどな」
長政軍が退いた先、八咫軍の前方には南斗軍の前衛部隊が戦闘準備を整えていた。
彼らを預かるのは、
あの三次川の戦いで、森の中で敗軍を再編していたところへ、拓馬軍後衛部隊を三郎に誘導されて戦う羽目になった、苦労人である。
今回も、中央が崩れて兵が動揺する中、なんとか踏みとどまらせて軍を再編していたのである。
長政が戦闘を継続していれば、八咫軍と行成の前衛部隊によって挟撃されていたことだろう。
「大魚を逃してしまったかな」
「三郎様、追撃なさいますか?」
「んー、いや、やめておこう」
三郎は明洲原の北の台地を見ながら、頭を掻いて言った。
「やれやれ、やっこさんは厄介な相手だよ」
長政軍は追撃を振り切って明洲原からの離脱に成功した。いや、正確には、八咫軍が追撃しなかったため、悠々と撤退したのだが。
「惜しいことだ」
長政は不敵に笑って呟いた。
「実に惜しい。ここで死ねたほうが、楽であったというのに」
長政は、五百の伏兵を台地の上に忍ばせていたのである。伏兵には、自軍が撤退する際に追いすがった敵兵がいれば、その側背を突くように指示を出していたのだ。
八咫軍があのまま追撃していれば、伏兵と引き返した本隊によって包囲され、殲滅されていただろう。
つまり、三郎も長政も互いに相手を討ち取る算段をしていたのである。そして、互いの相手への警戒心からそのいずれも実現することはなかった。
「命をつないだつもりであろうが、八咫、ここでさらばだ。もう会うこともあるまい」
意味深な言葉を残して、長政は馬首を返した。もはや、長居は無用である。先頭を切って馬を走らせた。
行きと同様の明陽川沿いルートを駆ける。そこへ、土手からひょっこりと何か小さなものが顔を出した。
「何奴」
長政が寄ると、それは幼い子供であった。この辺りの領民なのだろう、親とはぐれたか、あるいは戦見物にでも来ていたか。
長政は下馬して自ら子供に寄っていった。
「お主、どこの者だ」
子供は気圧されて言葉が出ない。足に力が入らないのか、尻もちをつき、失禁していた。
「お主、名はなんだ」
子供が口を震わせて言おうとする。何度か試みたあと、ようやく声になった。
「ま、孫七」
「そうか。孫七」
孫七は長政を見上げた。許されたのかと思ったのだ。
だが、孫七郎は長政の目を見て絶望する。その目は、無機質にこちらを捉えていた。少なくとも人間を見る目ではなかった。
「この無能が」
次の瞬間、孫七の首と胴体は斬り離された。長政は何の感慨もなく、隊列へと戻っていった。その様子を見ていた長政の家臣たちは、背筋の凍る思いであった。
長政の行いはまったくもって正しい。軍事行動は最高機密なのだ。行軍途中を見られては、進軍ルートや部隊の編成が敵方に漏れる危険性があった。そのため、行軍を目撃された場合は斬り捨てる決まりとなっていたのだ。たとえ、見られた相手が年端も行かぬ子供であっても。
だが、それを躊躇なくやってのける長政には、敬意を超えて畏怖の念を抱かざるを得なかった。
こうして、明洲原の戦いは、開戦からおよそ三時間後の午後四時頃に終結した。
戦闘に参加したのは、南斗軍七千五百(八咫軍含む)、拓馬軍三千。参加した兵数に比べて、双方の損失は百ずつと、戦闘による被害は少なかった。
事実だけを見れば、劣勢の拓馬家が小競り合いを仕掛けて、なんの戦果もなく撤退したことになる。だが、その事実を、誰がどのように解釈するかは、また別の問題であった。
その夜、南斗軍は
能代城は拓馬家が本拠の瀬野城の支城として築城した、小規模の城である。もっとも、長政の手によって防御施設は破却されていたため、もはや城跡と言っていい有様だった。
八咫軍は城の北部に出張った小さな曲輪を与えられた。そこに、板屋根と陣幕で覆った急造の小屋をこしらえ、三郎はその中でようやく安息の時を得ていた。
「三郎様」
と、幕の向こう側から声がかかる。
「ん……、なんだい?」
三郎は寝ぼけながら答えた。居眠りをしていたのである。
「起こしましたか?」
そう言いながら、美しい姫武将が入ってくる。舞耶だった。
いや、いい、と言いつつも、三郎は目を押さえた。
……いやあ、過重労働だな、これは。やっぱ、仕事なんてするもんじゃないよ。
んー、と一つ伸びをした三郎に、舞耶が声をかける。
「あの、お疲れでしたら、あとにしますが」
どうも、今朝からしおらしい。
「舞耶、またなにか怒ってるのか? 言いたいことがあるなら、ちゃんと言ってくれよ」
「ああ、いえ。その、見てしまったものですから」
見た? なんのことだ?
「……今朝、三郎様を起こしに行った時、絵図を何枚も描いて、そのまま机に突っ伏しておられるのを見ましたので」
あー、と三郎はようやく合点がいった。
「あれは、戦の策を講じておられたのですよね」
そう、三郎は昨夜、徹夜で今回の戦について策を練っていたのであった。それも、今日の戦だけではない、その後の戦闘まで包括した、八咫軍を含めた南斗軍が生き残るための、戦略についてだった。
……いつの間にか寝落ちしちゃってたから、片付けてもう一度寝たんだけどな。そうか、その前に舞耶が来ていたんだな。
「三郎様は、いつもあのように、準備なさっていたのですね」
舞耶が目を伏せながら言う。三郎は笑って答えた。
「私はもう、後悔したくないからね」
ちらりと、夢に出てきた前世の後輩を思い出す。
……そうだ、私は、もう二度と。
ふと、舞耶を見ると、恐縮しきったように顔を伏せている。
「舞耶?」
「……」
ふさぎ込んで返事がない。
やれやれ、と三郎は頭を掻いた。
「おーい、舞耶姫ー?」
「だから、某はもう姫ではないと――」
舞耶が声を張り上げて顔を上げると、三郎がニッコリと笑っていた。
「そうそう、舞耶はそれでいいんだよ。せっかくの美人が台無しじゃないか」
「……某は、美人でもなんでもありませぬ。三郎様はそうやっておだてますが、某は女を捨てましたから……。それに、武士としても、未だ半人前ですし」
「私は、舞耶はかわいいと思ってるけどね」
舞耶が口を開けて呆けている。
しばらくそのまま固まったあと、今度は急に真っ赤になってまくし立てた。
「ま、また、そうやって某をからかおうって魂胆なのでしょう!! 三郎様も、あの海賊娘と同じにございます!!」
まだ興奮が収まらないのか、鼻息を荒くして睨みつける。見た目もだが、そうやってなんでも素直に反応するのがかわいいのだと、三郎は言ってやりたかった。今は聞く耳を持たないだろうが。
「まあ、それは置いといて。武士としても舞耶はよくやってるよ。甲斐性なしで引きこもりの主に代わって律儀に働いてくれてるんだからね」
「そ、それは三郎様が……」
「ただまあ、不安になるのはわかる。私だって不安はあるよ。前にも言ったように必勝の確信なんてないからね。だから、準備をする」
舞耶が真剣に耳を傾けている。
そんな舞耶を三郎はつい茶化してやりたくなる。
「準備するのは当然さ、こんなところで死にたくないからね。なにせ、私はまだまだ研究し足りないんだからな!」
は……? と、また舞耶が呆気に取られている。
「つまりだ、昨日言ったように、舞耶も準備すればいいってことさ。まあ、私から見れば、舞耶は十分に準備してると思うけどね」
三郎が笑いかけると、ようやく舞耶も微笑んだ。
「いいえ、某はまだまだにございます。もっと鍛えねば、甲斐性無しで引きこもりの主人を守れませぬから!」
そう言って誇らしげに胸を張る。
……少しは吹っ切れたかな。舞耶が元気じゃないと、こっちも調子狂うからな。
「で、用件はなんだい?」
「あ、はい。これから軍議が始まるとのことで、招集が来ております」
「やれやれ、そんなのしたって無駄なのになあ」
あーあ、と大きくため息を吐く。
「仕方がない、行ってやるか」
はい! と、何故か舞耶が嬉しそうに言う。
「何を喜んでるんだよ、こっちはいい迷惑だってのに」
「いえ。ただ、三郎様はやっぱり三郎お兄様だったんだなと思いまして」
「そりゃあそうさ。舞耶だって、舞耶姫の頃と変わりないじゃないか」
「某は違います。でも、三郎様は三郎様でした」
いつになく、優しげな顔を舞耶が見せる。
「普段は茶化しておいて、自分は関係ないふうを装ってるのに、内心ではずっと他人のことを考えてばかり。素直なんだか素直じゃないんだか、よくわからないお人です」
三郎は苦笑いして尋ねた。
「誰だい、そりゃあ」
「さあ。朴念仁のすねかじりです!」
三郎と舞耶は、互いに見合って同時に吹き出した。
さて、と三郎は立ち上がる。
「じゃあ、行ってくるよ」
「あ、三郎様!」
後ろから舞耶が呼び止める。
「その、お気をつけて。行ってらっしゃいませ」
深々とお辞儀する舞耶。
「うん、あとのことは頼んだ」
「はい!」
頷いてみせたその顔は、やはり嬉しそうだった。
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