第32話 ただの下郎だよ

 岐崎湊きさきみなと、それは東国一の港として隆盛を誇る湊町である。

 海外との交易こそ少ないものの、全国各地からひっきりなしに商船が往来し、港を出入りする船は一日で百を数える。また、港に隣接する市は年中人でごった返し、他国からも買い付けにやってくるという。


「すごい……、これが岐崎湊……!」


 舞耶は感嘆の声を上げた。市で往来する人の多さに目を奪われたのだ。


「アンタは初めてかい?」


 と、後ろから声をかけられる。その声の主とは、


「なっ、大戸京!」


 大戸水軍の頭領である。思わず舞耶は身構えた。


「なんだい、連れないねえ。一緒に戦った仲じゃない?」

「なんでお前がここに!」

「岐崎湊は大戸水軍の庇護下に入ったからねえ、視察に来るのも当然じゃない」


 京は腰に手を当てて抗議する。


「それで、殿様はどこだい?」


 えっ、と舞耶は振り向いた。さっきまでそこにいた三郎がいないのである。


「三郎様!? ああもう、また勝手にうろつかれて……!」

「アハハ、お守りするアンタも苦労するね!」


 しばらく笑っていた京だが、ふと思い出したように言った。


「拓馬家にも若い殿様がいるらしいんだけど、あっちは血筋も素行も良くて、なかなかの切れ者らしいよ。あと、顔もいいって話だね!」


 顔と言われて、舞耶は三郎を思い出した。

 毎朝見る、ボサボサの頭を掻きむしるあの朴念仁の姿である。顔立ちが悪いわけではないのに、あの情けない立ち居振る舞いのせいでみすぼらしく見えるのだ。

 はあ、と舞耶は額を手で抑えながらため息を吐いた。


「三郎様も、ちゃんと整えれば見劣りすることなんてないのに」

「なんだい?」

「なんでもない! しかし、そのような者が拓馬にいるとは聞いたこともなかったな」

「近頃、家督を継いだって話だよ。そのせいで、お偉方には疎まれてるって話だね」


 なるほど、と舞耶はうなずいた。新参者が迫害されるのはどこも同じなのだ。


「三郎様と同じような者が、拓馬にもいるのだな」

「そうさね、もしかしたら、今ここに来てたりしてね」


 京は面白そうに笑った。






 三郎は嬉々として市の中を遊び回っていた。ここは三郎にとって宝の山と同義であった。


「この漆塗りの盆いいなあ、もうこんな蒔絵まきえを施す技術があったんだな! ああ、この鉄製の燭台もいい装飾してるなあ、普通にウチに欲しいわ! げっ、こっちは白玉の彫刻じゃないか、前世じゃ博物館でしか見たことなかったのに! ねえ、見てよ、舞耶! ……あれ?」


 三郎は当たりを見回したが、舞耶の姿が見えない。いつの間にかはぐれたらしい。


 ……まあ、いいや! こんな極上品を目の前にしてはしゃぐなって言う方が無理だよなあ。どうせ、どっかで会えるだろうから、もうちょっと見て回ろうーっと。


 そうして、隣の店に移ろうとしたときだ、


「おい、そこの下郎」


 と背後から呼び止められた。

 三郎が振り向くと、若い男が立っていた。いや、少年といった年齢だろうか。

 浅黄染の着物を豪快に着崩し、収まりの悪い黒髪を無造作に髷に結っている。腰には刀を下げているが、格好から見て浪人か気取った町民だろうか。

 それにしても、整った顔をしている。やや幼さが残るものの、スッキリとした目鼻立ちからは怜悧な印象を受ける。現代日本なら確実にイケメンと持て囃されただろう。

 だが、その射竦めるような眼光が異彩を放っていた。切れ長の目に浮かぶ黒真珠の瞳には静かな炎が燃え盛っているように思えたのだ。


 ……おっかないなあ、こういう若くて自信に溢れた陽キャみたいなヤツは苦手なんだよなあ。とっととやり過ごそう。


 そう思って、逃げ出そうとすると、肩を掴まれたのである。


「待て、下郎」


 ああ、もうめんどくさい。


「なんだい、人のことを下郎下郎って」


 すると、この陽キャは眉をひそめて言った。


「下郎と言ったら下郎であろう、その身なりを見れば当然ではないか」


 三郎は己を改めて見た。浅染めの着物をだらし無く羽織り、細身に余った帯はだらんと垂れ下がっている。


「めんどくさいからいいや、どうせ公の場でもないし」


 と言って髷を結ってこなかったため、頭はボサボサの長髪のままである。ついでに、


「私が持ってても役に立たないからいらない!」


 と言って刀も置いてきたのだ。


「なるほど! 下郎に相応しいな!」

「その下郎がこんなところで何をしている。よもや盗みでも働いているのではあるまいな」


 三郎はムッとした。

 確かに物乞いみたいな格好はしているが、気に入った商品に対してはちゃんと支払っているのである。しかも、相手の言い値で買い付けているのだ、物の価値がわからないように言われるのは、歴史の学徒として侮られたようで腹が立った。


「盗むだなんて人聞きの悪い、それに身なりが悪いのはあんただって一緒じゃないか」


 浪人風情の陽キャに反論する。すると、その陽キャが笑い出したのである。


「ククク……、そうだな、そうであった。お主の言う通りだ! 今の俺は一介の浪人であったわ」


 なんだこの気味悪いの、もう帰ってもいいかなあ。


 三郎が呆れて後ずさると、陽キャは逃さんとばかりにまたその鋭い目を向けてきた。


「では、お主、なぜここにいる。盗みでなければ、何か買う物があるのであろう? ここは俺の庭のようなものなのだ。買いたい物があるのなら、案内しよう」


 三郎は観念した。陽キャに絡まれるのは鬱陶しいが、案内してくれるなら話は別だった。


「はあ、それじゃあ、『鉄砲』を扱っている店に行きたい」

「ほう、『鉄砲』だと!」


 陽キャの黒い瞳が一層深みを増したように見えた。そして、今までとは打って変わった低い声で問う。


「お主……、何者だ?」

「ええ、ただの下郎だよ?」

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