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 僕とウサギさんは現地の警察の人達と一緒に、スマトラ島北部の山岳地帯の麓の森林に踏み込む。

 熱帯の木々が密生している森の中に、細い獣道がいくつかある。これまでの山狩りで作られた道だ。僕達はその道を歩いて、賊の現れる場所に向かう。

 ウサギさんは警察の指揮官らしい人と、頻繁に言葉を交わしている。インドネシア語だから内容は分からないけれど、フォビアの人を確保した後の処遇について話し合っているんだろう。……希望的観測過ぎるかな?


 しばらくして、僕達は森の中の少し開けた場所に出た。高い樹木が生えていない代わりに、丈の低い草が一面を埋め尽くしている。

 僕が前に出ようとしたところ、ウサギさんが警告した。


「デラーンは近くにいるぞ」

「どの辺?」

「向こう側だな」


 ウサギさんの視線は僕達がいる方とは反対側の森の中に向けられている。


「分かった。僕が行ってみる。他の人達には待機する様に伝えてくれ」

「気を付けて」


 僕は一人で開けた場所の中央へと歩いて行った。草が密生していて足元が見えないから、慎重に進む。草を踏むと脛まで埋まる。かなり歩き難い。

 開けた場所の中央に近付くと、いきなり目の前の草がバサッと払われた。草地に大きな鞭で薙いだ様な跡が残る。

 これが鞭のフォビアか……? ここから前に進むなという警告なんだろう。でも僕にフォビアは効かないぞ。

 僕は勇んで足を前に進める。その場から二歩踏み出した所で、僕の左側の草が巻き上げられる。

 だけど、僕には何も起こらずに、そのまま何かが素通りしたみたいに、僕の右側の草が薙ぎ払われる。同時に、ヒュンと空気を裂く甲高い音を聞いた。

 僕が驚いていると、今度は左側から往復の二撃目が迫る。だけど……これも僕には通じない。僕の周りの草が払われて宙に舞うだけだ。

 相手もバカじゃないだろうから、そろそろ僕に攻撃が効かない事を怪しむだろう。もう一度か二度くらい試してみて、確信を得たら撤退するに違いない。

 もしかしたら、もう逃げ始めているかも知れない。僕は相手に逃げる隙を与えないために、一息に開けた場所を突っ切ろうとした。下手に逃げられると、警察に殺されてしまう可能性が高まる。

 それよりは僕が先に取り押さえた方が良い。そう考えたんだけれど……大きく踏み出した一歩が地面を踏み締める事は無かった。


「うわぁ!?」


 僕は間抜けな声を上げて、落とし穴に落ちる。

 あぁ……してやられた。バカは僕の方だった。

 落とし穴の深さは1.5mぐらい。幅も同じぐらいか? 底に更に罠がしかけてある訳でもなく、ただ落ちただけで済んだ。特にどこかを痛めたという事もない。

 僕はすぐに這い上がる。時間にして数分だったけれど、相手に逃げる猶予を与えてしまった。

 ウサギさんが僕に駆け寄って来る。


「向日、大丈夫か!?」

「大丈夫、どうって事は無いよ。それよりデラーンは?」


 僕は服に着いた土と雑草を払いながら尋ねた。

 ウサギさんは真っすぐ森の中を見て答える。


「まだ遠くには行ってない」

「急ごう」

「ああ」


 警察の人達は既に追跡を始めている。それぞれ手にはアサルトライフルを持って。

 鞭のフォビアの射程距離も、アサルトライフルには劣るだろう。だからこそ身を隠して攻撃をしかけて来た。

 ウサギさんは警察の指揮官とまた話を始める。各個撃破されるから突出しない様にと忠告しているんだろう。

 僕達は落とし穴を警戒しながら、開けた場所を通り抜けた。また見通しの悪い森の中を進む事になる。

 僕はウサギさんに尋ねる。


「まだデラーンは近くにいる感じ?」

「そうだな。遠くには行っていない。一定の距離を保っている様だ」


 慎重に森の中を歩いていると、警察の何人かが進行方向に射撃を始めた。何か発見したのかと思って、僕は銃の向けられた先に目を凝らす。

 警察の人達はインドネシア語で短いやり取りをしている。


「ウサギさん、あの人達は何て言ってる? 何かを見付けた?」

「動く物を見かけたらしい。風の仕業か、野生の動物じゃないかと話しているが」


 それからしばらく歩いた所で、ウサギさんが僕に話しかけて来た。


「デラーンの動きが鈍っている。足でも挫いたか」

「さっきの銃が当たった?」

「……銃弾が石か何かに当たって跳ねたのかもな」

「警察の人達を置いて、僕達二人だけでデラーンと話せないかな?」

「ああ、そうしてみよう」


 ウサギさんは僕に同意して、警察の指揮官に話をしてくれる。結果、僕達は二人でデラーンと接触する事になった。警察の人達には、その場で待機してもらう。

 僕は自分のフォビアを意識して、ウサギさんの前に立って森の中を進んだ。


「この辺りのはずだが……」


 ウサギさんは周囲を見回しながら呟く。

 僕は木の幹にデラーンが身を隠していないか、一本一本の裏側まで見て確かめた。

 そして数分後、一本の大きなチークの木の根元に、憔悴した顔のボロを着た一人の少年を発見する。

 僕はびっくりして動きを止めた。少年は僕を睨み付けるけれど、暴れたり逃げ出そうとしたりはしない。お互いに無言のまま、数秒の時間が過ぎる。


「おい、向日?」


 横からウサギさんが話しかけて来る。

 ウサギさんは僕に近付いて……少年の存在に気付くと、小さく声を上げた。


「おっと、見付けたのか」

「この人が……デラーン?」

「ちょっと聞いてみる」


 ウサギさんはインドネシア語で少年に話しかけた。

 最初は無言を貫いていた少年だったけれど、やがてウサギさんの声に応え始める。

 話に区切りが付いたのか、ウサギさんは僕に言った。


「彼がデラーンで間違いないみたいだ。仲間はいない。彼一人だそうだ」

「信じて良いの?」

「こんな所で疑ってもしょうがないだろう。取り敢えず、拘束してメダンまで連れて帰るぞ」


 ウサギさんは警察の人達を呼びに行く。

 僕はデラーンを見張っていたけれど、逃げ出す素振りは全く無かった。何故かデラーンは座り込んだまま、僕に向けて不気味な笑みを浮かべている。

 ああ、インドネシア語が話せたら色々と聞けるのに。

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