3
宮殿の周辺にも人はいない。僕は無人の宮殿の裏手から侵入して、正殿の松の間に向かった。ルーシーもいなかったらどうしようかと、少し不安になる。
宮殿の中に立ち入っても人の気配はしない。僕は小走りで松の間に駆け込んだ。
ルーシーは……一人で高御座に向かって、祈る様に座り込んでいた。
「何を……している?」
僕の呼びかけに、ルーシーはゆっくりとこちらを向いて立ち上がる。
「祈っていました」
「誰に、何を?」
「神に、天国の平穏を」
「悪いけど、その祈りは届かない。この天国は終わりだ」
僕が強気に宣言すると、ルーシーは悲しそうな顔をした。
「どうしてですか? 多くの人が天国を望んでいるというのに」
「それと同じぐらい天国や地獄を望まない人もいるって事だ。地獄は既に解放した。観念しろ!」
「あなたは誤解しています。天国の存在に地獄は必須ではないのです。何故なら……よく言うでしょう? 所詮この世は生き地獄と。天国は弱者のための場所なのです。今に満足している人、未来に希望のある人には分からないでしょう」
「その弱者はどうなった?」
「……自らの望む物に姿を変えました」
「もう天国に天国を望む人間は一人もいないって訳だな」
「それでも人の心には天国が必要なのです」
そうは思わない。こんな天国なら安楽死と変わらないだろう。安らいだ心のまま永遠に人としての生を終えてしまうなんて。
「怒りも憎しみも悲しみも、人が生きている以上はどうしようもないんだ。負の感情を抱えたくないからって、生きる喜びまで手放したら、ますます生きてる意味が分からなくなる。明日への希望を失くしたまま生きて行く事はできないから、動物なんかに姿を変えるんじゃないのか?」
「天国に集まるのは、元よりそういう人達なのです。生き続ける希望を失った人に、それでも生きろと言うのは酷だとは思いませんか?」
「確かに。だが、天国は壊す!」
僕はもう迷わない。天国を恐れる事もない。何故なら天国は誰も救わないからだ。
「全ては生きている人間の問題だ。解決するのは人間じゃないといけない。生き続ける希望を失った人達をどうするかって問題も、社会全体で考えるべき事だ。天国に放り込んで『ハイ、終わり』って訳にはいかない」
「では、どうするのですか?」
「色んな人が色んな事を考えている。悩みを相談できる場所を設けたり、同じ悩みを持つ人同士で集まったり、もっと余裕のある社会を目指そうとしたり。僕もF機関でフォビアを持つ人達の助けになりたいと思っている」
「しかし、全ての人があなたの様に前向きに生きられる訳ではないのですよ」
「僕に分かる事はただ一つ。こんな天国じゃ誰も救えないって事だけだ!」
僕はルーシーに向かって歩き始める。一歩を踏み締める毎に、確実に距離が縮まって行くけれど、ルーシーは全く逃げようとしない。自分の能力に絶対の自信があるんだろうか?
だけど、今なら分かる。ルーシーは日常に疲れた弱い人達を哀れむ裏で、本当の事を語っていない。天国を維持するべき本当の理由を。他人のためじゃなくて、自分のための理由を。ジョゼやウサギさん、小館真名武の様な、実体験に基づく真実を。
フォビアが強烈な恐怖の経験から目覚めるのと同じで、地上とは理屈が全く違う天国を維持する強い信念を抱くには、相応の理由が必要だ。
そこを偽って隠したままじゃ、僕には勝てないぞ。
「綺麗事を!」
「綺麗事はどっちだ! 本当の事を言え!」
「本当の事……?」
「他人のためじゃなくて、自分自身のために。どうして天国が必要なのか!」
「私は世界の苦しみを――」
「世界じゃない! あんた自身の事だ!」
ルーシーは初めて怯みを見せた。
「私は……」
「あんたが本当に救いたかったのは誰だ? ここは誰のための天国だ?」
「それは……」
ルーシーの心は揺らいでいる。この天国を維持したければ、本心を偽る事をやめるしかない。自分の弱い心と向き合わなければ、本当の力は得られない。
僕が更に足を進めると、ルーシーは初めて後退った。
その時、高御座の御簾が開けられて、中から人が姿を現す。……見覚えの無い若い金髪の女性だ。もしかして彼女がルーシーの妹というセメレか?
「ヘシー!」
ルーシーは僕の視線に気付いて振り返り、高御座を見上げて叫んだ。
「ルシア、手のかかる姉ですね」
高御座からルーシーを見下ろす目は、どこか冷淡だ。そして、そのまま冷たい視線を僕に向ける。
「ムコウ、初めまして。私はエンピリアンのセメレ。ルシアの妹、ヘスペリアです」
「何をしに出て来た!」
ヘスペリアって変わった名前だなと思いながら、僕は問いかけた。
「天国を壊されては困りますから。姉を助けに――という事になりますね」
「どうして天国が必要なんだ?」
「私の心の平安のために」
この人、もしかしてヤバい人か?
僕はヘスペリアの態度に、まともな人とは違う物を感じていた。上手く言えないんだけど、人の事を何とも思っていないみたいな……。
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