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 それは全く奇妙な体験だった。足元も霞むぐらいの紫がかった濃い霧の中で、僕は小館真名武に呼びかける。


「小館真名武! どこにいる!」


 しかし一向に返事が無い。無視を決め込まれているんだろうか?

 今の僕にはフォビアとかの超常現象は効かないはずだ。霧の中を隅から隅まで慎重に探し回れば、どこかで見付かるはず。

 ……いや、ここは地獄の中心だ。ありとあらゆる悪と不浄を取り込んだ小館真名武の力は、確実に僕よりも大きいだろう。僕の無力化も通じない可能性がある。

 それでも僕は負けられない。地獄に囚われて狂ってしまった人達を元に戻すため、地獄の中で戦っている仲間のため、地獄の外で僕達を待ってくれている人達のため、そして何より僕と小館真名武のために。

 いくら濃霧と言っても、屋上の広さは限られている。精神世界とリンクして、おかしな事になっていなければ。

 僕は紫がかった霧の中で、小館真名武を呼び続ける。


「小館、どこだ! 小館!」


 ……しばらく歩いてみて分かったけれど、霧の中は明らかにヘリポートより広い。優に百㎡以上はある。これは確実に小館真名武の精神の影響を受けている。強い超能力が空間を歪めているんだ。

 歩けど歩けど、一向に小館真名武らしい人影は見付からない。闇雲に歩き回るだけではダメだと思った僕は、立ち止まって少し考えた。

 もしかして……か? あの怪物の頭の部分に小館真名武がいるのかも知れない。

 僕は天を見上げる。相変わらず濃い紫の霧しか見えないけれど、何かありそうな気配がする。

 でも、どうやって上を探す? 僕は空なんか飛べないぞ。僕にできる事と言えば、相手を引き落とす事ぐらいだ。


「降りて来い! 小館!」


 僕は上を向いて、強く念じながら呼びかけた。……それでも何も起こらないから、僕はしょうがなく上を向いて歩き回る。


「小館! 小館――いてっ」


 上ばかり見て歩いていた僕は、何か大きな物体に躓いた。それは……座禅を組んで瞑想している小館真名武だった。怪物の姿じゃなくて、普通の人間の若者だ。

 ……上じゃなかったな。とんだ見当違い。まあ……そんな事はどうでもいいんだ。見付かったんだから、結果オーライ。

 微動だにしない小館真名武に、僕は話しかける。


「悪い、見えてなかった。君が小館真名武?」


 ……返事は無い。小館真名武は無言で苦悶の表情を浮かべている。一人で世界中の悪と戦い続けているつもりなんだろうか?


「もうやめるんだ。そんな事をしても何にもならない。君は世界中の悪を相手にしているんじゃない。自分の中の悪のイメージと戦っているだけだ」


 反応が無いから聞こえているかも分からないけれど、僕は真剣に小館真名武の説得を試みた。


「この地獄の有様を見たか? 普通の人まで地獄の影響を受けて、ろくでもない事をやり始める。地獄に悪人が集まるんじゃなくて、地獄が悪人を生み出しているんだ。こんなの、自作自演でしかない!」


 余りにも無反応だから、僕は小館真名武に掴みかかって吠える。


「聞いてるのか!? 世界中の悪意を集めても、ただ悪意が膨らんで行くだけなんだ! フォビアと同じだ! フォビアで恐怖が伝播するのと同じで、地獄では悪意が伝播して人の心を蝕む! 世の中が平和になったりはしない!」


 小館真名武は目をきつく閉じて、脂汗を流すばかり。


「聞く耳を持たないなら、無理やりにでもやめさせるぞ!」


 僕は両手で小館真名武の襟首を掴んで力任せに吊り上げると、打ち捨てる様にその場に投げ転がした。

 小館真名武は目を閉じたまま、小さな呻き声を上げる。


「この野郎! 現実を見ろ!!」

「……私は世界を正したかった」


 僕の怒りの声に、ようやく小館真名武は反応した。僕は少し安心して、改めて小館真名武に話しかける。


「人は善悪に分けられる存在じゃないんだ。悪に誘えば悪に傾いて、善に誘えば善に傾く。ただそれだけの事なんだ」

「果たして本当にそうかな? 私の父親は間違いなく、何の悪意もなく人を悪に誘うタイプの人間だったよ。そういう人間が一人いるだけで、善意を前提としたシステムは容易に崩壊する。地獄は抑止力として必要なんだ」

「地獄があっても現実は変わらないと思う。人によってそれぞれ善や悪の基準が違うだけだから。皆やってる事だからとか、法律違反じゃないからとか、言い訳はいくらでもできる。僕達にできるのは、絶えず自分を省みて、何が善で何が悪なのかを問い続ける事だけだ。多くの人を巻き込んで、地獄を創る事が善行か? 僕はそうは思わない。巻き込まれた人達を解放するんだ」

「……嫌だと言ったら?」


 小館真名武はニヤリと笑った。この人も父親が憎かったんだろう。方向性こそ半礼寅卯とは違うけれど。そして、そんな父親に育てられた自分も。

 僕は強く言い返す。


「君も自分を許すべきだ。ギャンブルみたいに世界を巻き込んだ一発逆転の大きな善を求めるんじゃなくて、身の回りの小さな善を積み重ねる事こそが、本当の贖罪じゃないのか?」

「私は自分を許したくない。地獄の底で悪を呪いながら、永遠に苦しんでいたい」


 面倒臭い……頑固な奴だな!

 僕は大きく息を吐いて、改めて感情をぶつける。


「言っとくけど、地獄なんかあっても迷惑なだけだからな! 地獄は制御できないフォビアと同じなんだ! それが今のままで永遠に続くとでも思ってるのか? 地獄は人を集めるんだぞ! 地獄の中で悪意が増幅すれば、いつか結界の外にまで伝播して地獄が拡大する! お前が一人で苦しむのは勝手だけど、お前の我がままで世界中を地獄にするつもりか! 好い加減にしろ!」


 天国と地獄は拡大すると、半礼寅卯は言っていた。僕は天国と地獄のバランスが自然に保たれるとは思わない。地獄への門は広く、天国への門は狭いんだ。そうなると必然的に地獄の力が強くなる。

 小館真名武は視線を逸らして俯き、反論しなくなった。少しずつ……濃い紫の霧が薄れて行く。


「……私の夢、私の希望、私の贖罪……」


 疲れ切った様に呟いた小館真名武に、僕は告げる。


「何もかも、そんなに都合好くはいかないって分かってたはずだ」

「私は死んでも良かったんだ。寧ろ、消え去りたかった。この世の悪と共に。私は恐ろしかった。私達家族の裕福な生活が、悍ましい悪事の上に成り立っているという、その事実が……。私達の前で堂々と正義を説きながら、その裏で何の躊躇いもなく悪事を行える父が……」

「後に残る問題を放り投げて、自分だけ楽になろうったって、そうはいかない」


 紫の霧はますます薄れ、ドライアイスみたいに足元に少し残るだけになった。再び強風が吹き始める。


「私はどうなる?」

「逮捕されて、しばらくは閉じ込められて暮らす事になると思う」


 今や霧は完全に晴れ、美しい東京の夜景が視界に広がる。

 僕達は現実に帰って来たんだ……。

 小館真名武は僕の言葉に何も応えず、後から駆け付けた真桑さんに手錠をかけられて連行された。エンピリアンに手錠なんか無意味だと思うんだけど、逮捕しましたという形式的な物なんだろう。

 これで地獄も終わりだ。辺りは真っ暗で今のところは何の変化も無いけれど、明日の朝になれば人々も正気に返っているだろう。

 僕達四人は屋上から五十五階に戻って、エレベーターで一階に向かう。誰も言葉を交わさなかったけれど、不思議と気まずい感じはしなかった。

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