半礼寅卯という人物

1

 白い光の壁を通り抜けると、その先は天国と同じ様な雰囲気だった。でも人の姿は全く見られない。ただ小鳥達のさえずりだけが聞こえる。心の中に不思議な安らぎが侵入して来る。

 不自然な感覚に僕は眉を顰めて、真桑さんに尋ねた。


「半礼寅卯はどこにいると思いますか?」

「旧洋館御休所だと思う。こっちだ」


 真桑さんは冷静に答えて、僕を案内した。

 移動中、僕は新宿御苑の風景を眺める。広い芝生と夏の青々とした草木が、昇り始めの朝陽を受けてオレンジ色に燃えている。こんな時じゃなければ、ゆったり観光でもしたんだけどなぁ……。残念ながら、今はそんな場合じゃない。


 僕達が旧洋館御休所の前に着くと、中から白い服を着た人物が姿を現した。

 半礼寅卯……なのか?


「ようこそ、ムコウ」


 まるで少年の様な妙に清々しい声に、僕は違和感を抱く。この人はもっと高慢で鼻持ちならない性格だったはずだけど……。顔付きも何だか優しく見える。

 ……あっ、化粧をしていないのか! 天国のせいで人格が変わってしまったのか? 中性的な外見のせいもあって、まるで天使みたいな――いやいや、こんな奴を相手に僕は何を考えているんだ。天使だなんて。

 僕は首を横に振って、自分のフォビアを強く意識した。惑わされちゃいけない。

 僕が気を引き締めると、半礼寅卯は僕の横にいる真桑さんに目をやった。


「招かれざる者がいるな。お前はお呼びじゃない。お帰り願おう」


 そう言われた直後、真桑さんは白い光に包まれて消えた。僕は慌てて手を伸ばしたけれど、間に合わなかった。

 ここでも僕のフォビアは通じないのか? 半礼寅卯までもが僕よりも強い超能力を持っている?


「何をした!?」

「天国の約束を守ってもらっただけさ。ここは天国、人を傷付ける武器は必要ない」


 焦る僕に半礼寅卯は微笑んで告げた。つまり真桑さんは武器を隠し持っていたから追放された? 一体どこに飛ばされたんだろう?

 真桑さんの事だから、一人でも大丈夫だろうとは思うけど……。


「超能力者が支配する国を創るんじゃなかったのか? ルーシーと一緒になって天国と地獄なんか創って、どうするんだ?」


 僕の質問に半礼寅卯は微笑みを崩さずに答える。


「こんな所で立ち話もアレだし、中でゆっくり話そう。どうぞ」


 半礼寅卯は僕を旧洋館御休所の中へと誘う。お前の家じゃないだろう……と思ったけれど、この状況でくどくど言ってもしょうがない。


「罠が用意されてるんじゃないのか?」

「そんな事を考える必要は無い。ここは天国だからな」


 天国や地獄を創った張本人でも、ルールには逆らえないって事か?

 僕は半礼寅卯の案内で、旧御居間に通される。そこで着席する様に促されて、僕は慎重に椅子に座った。

 半礼寅卯自身は窓辺に移動して語り始める。


「超能力国家を目指す心に変わりは無い。だが、その前に人の心を正す必要がある。醜い嫉妬や権力争いを防ぐために」

「どうやって?」

「ムコウ、人はどうやって善悪を決めるんだろうか? 多数主義が善悪を決めるなら少数派は常に悪に回らざるを得ない。超能力を持つ者は常に迫害される側に回ってしまうだろう。それは超能力者以外でも同じだ。そこに正義はあるだろうか? 逆に超能力者による独裁も正義とは言えないだろう。しかし、議論を尽くしても最後は多数決になるなら、俺達はどうやって正しさを決めれば良いと思う?」


 急にまじめな話になって、僕は困惑する。言っちゃ悪いけど、もっとお気楽な思考をしている奴だと思っていた。


「世の中に絶対的な善悪は存在しないと、知ったか振って言う奴もいる。事実その通りだろう。何らかの信仰無しに、人は善行を続けられるか? 答えはNOだ。君は地獄を見て来ただろう。あれこそが人の本性だ。人は己の醜い内容物を、表皮という包装で装飾して覆い隠しているに過ぎない。即ち、人が善人であり続けるには信仰が必要なんだ。だから俺達は天国と地獄を創ったんだよ」

「宗教なんか無くても、日本には法律があるし、人には善意がある」

「あんな物は有名無実だ。法律なんてものは法に触れなければ良いという考えが蔓延する元でしかなく、人の善意なんてものは利益誘導と悪しき癒着の元でしかない」

「天国と地獄があれば、改心するとでも言うのか?」

「そうだ。天国への憧れが天国を保ち続け、地獄への恐れが地獄を保ち続ける。人は幻想の下でしか、本当の善悪の概念を保ち続けられない。咎めを受けなければ、どんな事でも実行してしまう」


 理屈は分からなくもない。だけど、人工の天国と地獄がそこまで立派な物だとは思わない。地獄は確かに地獄だけれど、金と権力で何でもできてしまうから、罰が罰にならない。天国には確かに争いは無いけれど、喜びまで否定されては生きている意味を失くしてしまいそうだ。

 疑いの心が晴れない僕に、半礼寅卯は流し目で妖しい視線を送って来た。


「君はかわいいね」

「かわいい!?」


 冗談じゃない! かわいいと言われて喜ぶとでも思っているのか?


「俺には君の心が手に取る様に分かる。不安に怯えているんだ」


 口説く様な言い方が気持ち悪い。

 フォビアは通用しているはずだ。心を直接読んでいるんじゃない。僕の様子から察しているんだろう。


「そんなに何もかも都合好くなる訳がない。そもそも東京の一部を天国と地獄に分けただけじゃないか! そんなんじゃ世界どころか日本だって変えられない」

「分かってないな。物理的な距離は関係ない。邪悪な魂は地獄に誘われ、善良な魂は天国に誘われる。それだけの事だよ」


 観念クラスの超能力の前には、物理法則も意味を成さないから?


「そんな、まさか……」

「信じれば叶う。迷う事は無い」


 納得が行かない僕に、半礼寅卯は顎に手を添えて考える仕草をした。


「まだ信じられないかな? 今も続々と地獄には人が集まっている。欲に溺れた醜い者共が……。誰でも悪事を隠そうとする。それ自体が悪と知りながら」

「悪人を排除しても、世の中が良くなるとは限らない」

「困難の底にあって、尚も善良な心を保ち続ける者には天国が与えられる」

「それが何の解決になる? そもそもどうやって超能力者の国を創る気だ?」

「察しが悪いな。この天国と地獄こそが超能力者の国なんだ。やがては地上に天国から堕ち零れた者、地獄から這い上がった者が現れ、世界中に天国と地獄の存在を知らしめるだろう。そして多くの人の心を満たし、天国と地獄は拡大する」

「――で、世界平和の完成だって?」

「そうだ。地球は天国と地獄と地上の三つの世界に分けられるだろう」


 依然として僕は半礼寅卯の言う事を信じられない。いや、信じる信じない以前に、それが本当に良い事なのかも分からない。


「善人でも悪人でもある人はどうなるんだ? 善も悪も人の一面でしかないのに」

「善悪は天秤で量れない。どんなに善を尽くしたとしても、悪を成した以上は地獄に落ちる。悪の心を克服できなければ、地獄からは出られない。逆に言えば、どんな悪人でも心を改めて悪を捨て去る事さえできれば、地獄から逃れられるんだ。理想的なシステムだろう? 改心もできない悪人は、悪人同士地獄の中で死ぬまで争い続けていれば良い」


 この半礼寅卯の冷淡さは、どこから来るんだ? ルーシーやジョゼみたいに家族がいない訳じゃないだろうに。ふと浮かんだ疑問が、僕の中で大きくなる。


「どうしてそこまで悪を憎むんだ?」

「知りたいか? だったら……裸になれよ。ここは天国だ。隠すべき物は何も無い」

「えぇ……?」


 ドン引きする僕の目の前で、半礼寅卯はするすると服を脱いで行く。その所作が妙に艶めかしくて、僕は堪らず目を背けた。

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