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その後は特に大きなトラブルも無く、新宿御苑前に辿り着けた。ただ一つ気になるのは、新宿御苑の周りにも真っ白な光の壁が見えるという事だ。
タクシーの運転手も驚いていた。
「何だ、こりゃぁ……」
これは天国と地獄の境目のはず。新宿御苑も天国なのか? 太極図には陽中の陰と陰中の陽があるけれど、皇居の方には壁なんか無かったぞ。
僕はタクシーの運転手に問いかける。
「このまま御苑の中に入れますか?」
「無理無理。ここではお偉いさんに失礼があっちゃいけないんですよ。御苑に立ち入るなんて、とんでもない!」
「そういう事になってるんですね?」
「ええ。はぁ、もう、一体どうしてこんな事になってしまったんだか……」
「じゃあ、ここで十分です」
僕はタクシーから降りて、運転手に五千円札を一枚渡した。
「お釣りはいりません。急ぐので」
運転手は困った顔をしたけれど、何も言わずにお札を受け取って去って行く。
僕は改めて新宿御苑を囲う光の壁を見上げる。間違いなく、半礼寅卯はこの中にいるだろう。奴は天国と地獄を地上に出現させて、これから何をするつもりなんだ?
……あっ、天国で思い出した。あっちでは使えなかった携帯電話が、こっちでは使える様になっているかも知れない。真桑さんに連絡してみよう。もう御苑の中に入っていたら、通じないだろうけれど……一人で突入する程、無謀じゃないと思いたい。
僕は懐から携帯電話を取り出す。約十回のコールの後、ようやく真桑さんが電話に出てくれた。
「もしもし、真桑さん?」
「向日くん、無事だったか? 今どこにいる? 今までどうしていた?」
「一時間ぐらい前に、天国から落とされて来ました。今は新宿御苑の前にいます」
「俺は夜中の内に地獄に落とされて、今は新宿の地下通路にいる」
「大丈夫ですか? 正気を保ててます?」
僕の心配を真桑さんは笑い飛ばした。
「はは、心配には及ばない。エンピリアンの確保に備えて、脳波を遮断するヘッドギアを持っていたのが幸いだった。外部との連絡も取れて、今は公安C課のバックアップもある」
思っていたより余裕がありそうだ。僕は安心して小さく息を吐いた。C課の人達が仲間になってくれたのは心強い。東京がこんな事になってしまった以上、もう政治家の顔色を窺っている場合じゃないという事だろう。
そう言えば、国会議員の人達はどうなったんだろうな? 国会議事堂や議員宿舎も天国に巻き込まれたはずだ。他の人達と同じ様に、何人かは天国に留まって、残りは地獄に落ちたんじゃないかと思う。
「今、新宿御苑前だったな? よし、今から迎えに行く」
「御苑に突撃しますか?」
「やる気なのか?」
「はい。ルーシーには追い返されてしまいましたけど、半礼寅卯にまで負けるつもりはありません」
「……少し待ってくれ。一度地下に避難しよう」
僕一人でもやれるかも知れないけれど、不安が無い訳じゃないし、ここは素直に真桑さんの提案に従う事にした。
新宿御苑前で迎えを待っている間、僕は新宿の街をぼんやりと眺める。この辺りはとても静かだ。人の通りは少ないし、喧嘩や言い争いなんかも起こらない。「お偉いさんに失礼があっちゃいけない」という精神が作用しているからか?
ここでは秩序と無秩序が隣り合わせだ。金と力が全てだから、少しでも自分より弱い者を見付けて、自分の優位を保とうとする。そして強い者には絶対に逆らわない。卑怯者の世界だ。
僕は中学三年の時の事を思い出して、嫌な気分になった。僕もまた、そういう卑怯者の一人だった。あの時に転校生に逆らうだけの勇気があれば……。
そんな事を考えていると、僕の前に黒い乗用車が停まる。運転席に座っているのはヘッドギアをした真桑さん。助手席にも大人の男性が座っているけれど……この人は誰だろう?
真桑さんが運転席の窓を開けて、僕に話しかけて来る。
「迎えに来たぞ、向日くん」
「ありがとうございます」
僕は車の後部座席に乗ってから、真桑さんに問いかけた。
「ところで、そちらの方は?」
「俺の上司、一条府道係長だ」
この人が例の……本名じゃない人なんだ。
「よろしく、向日くん」
「あっ、はい。初めまして。向日衛です」
顔付きからして若そうに見える。三十歳ぐらいか? ヘッドギアを被っていない。サングラスをかけているけれど……。
「あの……ヘッドギア無しで大丈夫なんですか?」
「ああ、小型の脳波遮断装置を持っている」
そんなのがあるのか……。でも機械なら天国では役に立たないな。電力の問題もあるだろうし。
僕と一条府道さんが話している間に、真桑さんは車を発進させる。向かう先は御苑前の地下駐車場。
駐車場の管理人は頭にヘルメットを被っていた。これも脳波を遮断するんだろう。
地下駐車場に車を置いて、僕達三人は新宿駅に向かう地下道へと歩いた。地下道を移動中、真桑さんは僕に現状を語ってくれる。
「国会議員や官僚の大半は天国と地獄に封じ込められてしまったが、取り敢えずは都庁を中心に新政府を立てる計画がある様だ」
「どうにかできそうですか?」
「やるしかないという状況だ。各知事や地方議会も必死になっている。地獄だけでも取り返せないかと考えてはいるんだが……」
「エンピリアンがいる以上、それは難しいと思いますよ」
「そうだな。しかし、地獄に落ちた国会議員が集まって、新たな秩序を創ろうとしている。はっきり言って混乱の元だ。精神が地獄に汚染されているから、ろくな事にはならないだろう」
「どうなるんですか? 地獄の政府と新政府で内乱?」
「幸い、地獄から出る事は容易じゃない。地獄の連中が何を言って来ても、当面は無視を決め込む」
実行力では都庁の新政府の方に利があるのかな? 少なくとも地獄にいる連中に政治は任せられないってのは事実だろう。
だけど、一条府道さんはちくりと言う。
「そう簡単には行かないぞ。正統性で言えば、地獄の政府の方に理がある。新政府ではなく、あちらの言う事を聞くべきだという声も小さくない。自衛隊も法律上は向こうに指揮権がある。更には防衛省も地獄の中だ。正当性を判断する最高裁は天国で、当てにできない」
「ど、どうするんですか……?」
地獄に日本を支配されるのはゴメンだぞ! 金と暴力で相手を屈服させる事しか頭にない連中が、正当な権威を持ってしまったらどうなるか!
焦る僕に一条府道さんは淡々と答えた。
「まだ時間には余裕がある。地獄でも誰が主導権を握るかで一悶着あるだろう。情勢が落ち着く前に方を付ければ良い」
「余裕って、どのぐらいですか?」
「一週間か、
「どうしてそう言い切れるんです?」
「地獄だからさ」
言葉の意味は分からなかったけれど、何となく説得力があった。きっと地獄だから永遠に争いが収まらないんだ。
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