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 外はすっかり明るくなっている。どうやら実際の時間は僕の体感より早く過ぎていたみたいだ。天国での時間は当てにならないと考えるべきだろう。

 ここから西に向かえば、新宿に着くはず。そこにもう一人のエンピリアンの親玉、半礼寅卯がいる。でも、まずは真桑さんと合流しないと。取り敢えず、真っすぐ新宿御苑に向かおう。きっと真桑さんもそこにいる。


 目白通りには予想外に多くの人が出歩いていた。地獄に落ちたら簡単には出られないらしいから、それでこんなに人が集まってしまうんだろうか?

 天国と比べて、いやに騒々しい。もう明るくなっているから、これが普通なのか? きっと天国が静か過ぎたんだろう。

 そう言えば、ここでは普通に電気が通っている。自動車も走っているから、機械類も使えるみたいだ。

 さて、どうしよう……。新宿までバスや電車に乗って行くべきか? でも中央線の南側を通る所はダメだ。は封鎖されているも同然。東京の地理に明るくないのが悔やまれる。

 何度も東京に行ってたんだから、もうちょっと東京に興味を持つべきだった。でも僕の東京の思い出と言えば、カルトと事件とカルトだからマジでもう二度と近付きたくなかったんだよなぁ……。

 人に道を尋ねようにも、誰も地獄で人格が狂っているだろうから、そうそう声をかけられない。一人で歩いていても絡まれそうだし……。

 こんな時にどうすれば良いか、五縞さんは何て言ってたっけ?


 行修羅道の心得――強者らしい心身の構え。

 一つ、背筋を伸ばして胸を張り真っすぐ前を見る事。

 一つ、小さな事には動じず歩行速度をゆったりと一定に保つ事。

 一つ、慌てず急がず全ての動作に余裕を持たせる事。

 一つ、背後を常に心に留め置く事。

 一つ、気まぐれに立ち止まり静かに周囲を観察する事。


 ……やるしかない。僕は南西に向かって歩き出す。新宿御苑まで約4km。一時間もあれば着くだろう。


 僕が目白通りを外れて外濠沿いを歩いていると、道端に人だかりができていた。

 何をやっているのかなと思ったら、路上の喧嘩だ。警察が駆け付けて、すぐに止められるだろうと予想していたけれど……既に人だかりのあちこちに警官の姿がある。

 よく見れば、警官が胴元になって賭け事をしている! ストリートファイトに邪魔が入らない様に、交通整理までしている有様だ!

 地獄かよ……地獄だった。モラルも何もありゃしない。


 梅雨入りが遅れている六月の朝は清々しく晴れているのに、嫌な空気がこの街を支配している。人々の目付きは余裕を失って、他人の隙を窺う様にギラギラしている。あちこちで喧嘩が絶えず、時には銃声まで聞こえる。

 ここは本当に日本か? 身の危険を感じた僕は、少しならお金があるからタクシーに乗ろうと考えた。

 新宿御苑までは3kmぐらい。料金は……三千円あれば足りるだろう。僕はその辺に停車しているタクシーの側で、タバコを吸っている運転手に呼びかけた。


「すみません。新宿御苑まで行きたいんですけど……」

「初乗り1km一万五千。加算1km一万」

「ええっ!? 高過ぎませんか?」

「嫌なら乗らなくていいですよ。貧乏人は歩いてください」


 タクシーの運転手は舌打ちして、フンと見下した様に鼻を鳴らす。

 物価がインフレしてるのか? それとも吹っかけられている? どっちにしても、まともじゃない。ここは金と暴力が支配する欲望の世界なんだ。

 僕は自分のフォビアを意識して、改めてタクシーの運転手に話しかける。


「何でこんな事になってるんですか?」

「えっ……」


 さっきまでタクシーに寄りかかって気怠そうに対応していた運転手は、急に慌てた顔になってタバコを捨て、火を踏み消した。そして僕を正面から見て、気まずそうに語る。


「いや、私にも分からないんですよ……。常識が変わったって言うんですか? 今朝から。とにかく稼いで儲けなきゃって気になって」

「それで、新宿御苑まで乗せてもらえますか?」

「それは……はい、お金さえ払ってもらえれば」

「何円?」

「初乗りは千円、1km千円で結構です……」

「ちょっと高くないですか?」

「一度変わった常識が元に戻る訳じゃないですから。ここで生活して行くには、お金が必要なんですよ」

「分かりました。乗せてください」

「あい、毎度」


 タクシーの運転席に乗り込んだ運転手は、後部座席のドアを開ける。僕はすぐに乗り込んで、小さく息を吐いた。

 ……ところが車の中でも安心はできなかった。歩行者も車線も知った事かと、暴走する車がとにかく多い。交通弱者への配慮なんか、どこかに飛んで行ったみたいだ。

 その内、タクシーの運転手が急にスピードを落として、タクシーを路肩に停めた。

 僕は何事かと思ってきょろきょろと辺りを見回したけれど、消防車や救急車、パトカーは見当たらない。


「どうしたんです? 何かトラブルですか? 故障? パンク? ガス欠?」

「そうじゃなくて……」


 運転手はちらりと右のサイドミラーに視線を送った。後ろから来ているのは、真っ黒な高級車……。


「議員先生のお車です。前を走っていると後で何をされるか分かりません」

「議員先生って誰ですか?」

「特定の誰かじゃありません。国会議員とか都議とか区議とか、とにかく権威がある偉い人のご機嫌は、ちょっとでも損ねちゃいけないんです」


 地獄かよ……地獄だった。深い溜息が漏れる。一刻も早く何とかしないと、本当の地獄になってしまうかも知れない。

 この地獄で真桑さんは正気を保っていられるだろうか?

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